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 疲れた身体をなんとか鞭打ち、重い足取りで階段を上る。狭い玄関の、その足元に、綺麗な封筒に綺麗に印字されたわたしの名前があった。

 靴を脱ぎ、その封筒を手に取る。かつての恋人が差出人であった。

 結婚式の案内?

 わたしたちは、憎しみ合って別れたわけではない。好きだけれど、愛し合っていたけど、お互いのどうしようもない都合で、譲れない価値観のために、別に生きていくべきだと、判断したのだ。

 今すぐには無理だけれど、時間がまた二人を友達に戻してくれるから、その時は結婚式に呼んでね。約束だよ。

 そう言ったわたしの言葉を彼は覚えていてくれたのだろうか……。

 封筒を開けると、そこには案の定、招待状が入っていた。

 日時と場所。会費の金額。ありきたりの案内状だったが、最後に彼の下手くそな文字でこう記されていた。

 ---もし、今あなたが、結婚していたり、恋人がいて、ハッピーというならば、ここには来ないで欲しい。僕は、あなたがどうしても出来ないと言った結婚を、どうだ、僕は幸せになるぞ! あっはっは! と、見せつけたいのです---

 なるほど。
 わたしはくすりと微笑んだ。

 わたしよりも三歳も年下の彼とは、同じ職場で出会った。食べ歩きが趣味という彼とはよく飲みに行った。映画の好みも近いところがあり、弟のような感覚を彼に抱いていた。お互いの恋愛話や、仕事の愚痴も良くしたっけ。映画を見ては何故か同じシーンで涙を流した。もう歳だからが口癖のわたしを、いつも日向に連れ出してくれたのが、彼だった。

 わたしたちは、ずっと友達だった。あの日までは…。

 あの朝、大地震のあの日。電話が通じないからと、彼は自転車で一時間もかけてわたしの家にやって来た。一人暮らしのわたしが不安な思いをしているのではないかと。けがでもしているのではないかと案じてくれたのだ。あの凍てつくように寒い朝のことだった。

 「!!!!!」

 わたしの名前を呼びながらドアを叩く音が聞えた。
 電気はつかない。ガスも、水道も、そして電話も不通なのだ。地震が大規模であることは想像できたが、何もできないわたしは、一人布団に潜っていた。

 そこへ彼が現れたのだ。鼻を真っ赤にさせて。手袋さえしていないその手は冷たく、ぜえはあと苦しそうな呼吸を調えようとしてうまくいかない彼の目からは、涙が滲んでいた。

「どうしたの? そんなに慌てて」
「どうしたもこうしたも…心配したんじゃん」
「鼻、垂れてるよ?」
 彼は一瞬むっとした。そりゃそうである。心配して駆けつけてみたものの、鼻垂れてると指摘されたのだから。
「ちゃりで来た…からね…。そんなことしか言えんのか?」
 息を切らしながら彼はふてくされながらそう言った。
「…車はどうしたの?」
 わたしの両の手は知らずしらずのうちに、彼の頬へ伸びていき、そのあまりの冷たさにびっくりした。
「車検……」
 彼がその言葉を吐き出す前に、わたしは彼の冷たい身体を抱きしめた。彼の鼓動が、ますます強く響き出した。
「ありがとう。独りで、不安だった…」
「せやろ? そう思ったから、真っ先にここに来た…」
 そう言って彼はわたしをより強く抱きしめ返したのだ。

 そこから、わたしは、友人でもなく、兄弟でもなく、一人の男として、彼を愛すようになったのだった。

 わたしたちが友人として付きあった期間は半年。そして恋人として愛し合ったのは二年と半年ほどだった。

 お互い劣悪と言える家庭環境に育ち、親の愛情というものを知らずに育ったわたしたちではあったが、その部分の考え方は正反対だった。

 家庭や家族というものに不信感を抱いて育ったわたしは、結婚という制度に全く興味がなく、自分が誰かと結婚するということが念頭になかった。が、彼は違っていた。幸せと言えない家庭だったからこそ、自分は結婚して幸せな家庭、そして家族を持ちたいと望んでいたのだ。

 わたしたちが付きあいだしたころ、彼はまだ二十三歳と若く、その年齢ゆえに、結婚というものを意識してはいなかったが、仕事が軌道に乗りだし、そしてまわりの友人の、彼女と結婚しないの? と言うありがた迷惑な助言に、わたしとの結婚を強く望み始めた。

 わたしたちは、その問題に関して、かなりの時間を割いて話し合ったが、二人の意見は平行線のままだった。

「俺の収入に不安があるの?」
「だから、そんなこと言ってないでしょ?」
「俺以外に好きなやつでもいるの?」
「何言ってんの! そんな人がいたら、とっとと別れるよ、わたしは!」
「じゃあなんで? なんでそんなに嫌がるの?俺との結婚を…」
「……」
「三歳も年下の俺じゃあ、駄目なの? 俺じゃああなたを幸せにできないかもしれない。けどね、二人でなら絶対幸せになれると思ったから、ずっと一緒にいたいと思ったから…」
「いっしょに、一緒にいるだけじゃ、駄目なの?」
「……」
「今すぐって言ってるわけじゃないんだよ? 二年後、三年後なら気持ちも変わるかもしれないよ?」
「……」
「紙切れ一枚の問題じゃない。ずっと二人で仲良く暮らしていくだけじゃ駄目なの?」
「紙切れ一枚? ……紙切れ一枚が重要なんだってどうして判らない? それが全てを上手く動かすし、便利になるってどうして判らない? 結婚することで、社会的な部分で男の評価は違ってくるし、税金やらいろいろ控除されるし、便利で良いことばかりなのに、何で判んないの? 何を恐れてるの!?」

 堂々めぐりだった。
 わたしはとても彼を愛していた。彼もきっとそうだったと思う。彼との結婚を考えられないわけではなく、誰との結婚も考えられなかったのだが、彼には同じだったのだ。

 今思えば、彼の言う通りだ。わたしは、何を恐れていたのだろう。彼を愛していたのに、一緒にいて幸せだったのに。失うものは皆無に近く、得るものは無限だったというのに…。

 七月のある晴れた日に、彼はわたしに別れを告げた。
 秋から転勤になる。君に一緒に来て欲しいが、それは無理だろう。もう、この関係を続けて行くことはできない…。今はまだ、当分無理と思うけど、君以上に惚れた女と、絶対結婚して幸せになってみせる。その時後悔しても遅いんだからな!

 彼は、涙でくしゃくしゃにした顔で無理やり笑顔を作ってみせたが、それはうまくいかなかった。わたしは、彼を失いたくはなかった。この笑顔を、この優しさを、この愛しい男を失うことは自分の半身を失うことと同じだった。それなのに、わたしは、彼と一緒に行くとは言えなかった。結婚の二文字を発することが出来ず、彼を抱きしめることしか出来なかった。

 君なら、すぐ素敵な恋人ができるよ。だって、わたしが惚れた男だもん。今すぐには無理だけれど、時間がまた二人を友達に戻してくれるから、その時は結婚式に呼んでね。約束だよ。そして、わたしに後悔させて…。こんな良い男のプロポーズを蹴ったことを……。

 どれくらい抱きしめあっただろうか。天窓から覗く夕日に、彼の輪郭が影を帯び始める。

「最後のキスをしていい?」
 そんな彼の言い回しが好きだった。いつもわたしを気遣う物言い。優しく尊重してくれるその態度。少しかすれ気味の、甘い声。全てが宝物だったのに。

 わたしたちは、その唇が微かに触れるだけの、まるで大人らしくないキスした。燃えるような赤い夕陽が、二人の影をこのまま焼き付けてくれればいいと、そう願った。

 その後、彼は転勤し、わたしも職を変えた。忙しい毎日が、彼の存在を薄れさせた。結婚を考えないということは、一人で生きていくということ。そう再確認したわたしは、少しでも楽に生きてけるように、夜間、学校に通いだした。そして、新しい交友関係がわたしの気を十分に紛らわせた。
 でも彼なしで迎えた冬、わたしは凍えていた。わたしを覆ってくれていた優しい羽根を見つけることがでずに。偽物で我慢できるのであれば、もう少し楽に生きれたのに…。

 かつての同僚から、彼の噂を聞くともなしに聞いた。
 移動当初、慣れない環境で大変苦労したようだ。でも、あの明るい性格と、ルーズに見えて几帳面な性格で、こつこつ頑張ったに違いない。社会人として成長した彼の様子が目に浮かんだ。そうして、その横に微笑む優しい女性の姿も容易く想像できてしまった。

 わたしはその晩、一人でシャンパンを空けた。まだ彼を愛している自分の気持ちを泡に乗せて飛ばしてしまうために。

 彼と別れて三回目の夏が巡ってきた。友人達とお祭りに向い、うっかりはぐれてしまったとき、同じく誰かを探しているそんな彼を見かけた。彼が伸ばした手の先には、浴衣姿のかわいい女性がいて、その人が彼が選んだ彼女と直ぐ分かった。
 人込みの中で、彼が彼女の手をしっかりと握りしめた。そんな彼に彼女は優しい瞳を向け、その握られた手をきつく握り返す。二人の手は離れることなく、熱を帯びた空気の中に呑込まれていった。

 かつての相棒の幸せな姿を見て、優しい気持ちでいられるのが不思議だった。もう、わたしの胸は痛むことはなかった。ただ、少し切なくて、甘酸っぱい想い出が、わたしの瞳を潤ませた。

 大丈夫。わたしは大丈夫。ほんの少しの後悔は、確かにある。でもそれはきっと感傷にすぎない。上手くいかなかった恋ほど、いつまでも甘く切ない。
 わたしは、9センチのヒールに、ジャストフィットのミニ姿。腰近くまで延びた髪の毛は、タイトにアップスタイルで。そして、胸元にはダイヤを。そう、君がくれた小さな小さな光の粒で武装して、笑顔で戦場へ向かおう。

 さあ、かつて愛した男よ、たくましく一人で生きている女の心意気、とくとご覧あれ。


2003.02.12



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