Home--novela---紫鏡の刻印


 脳にきしきしと染み込もうとするそのきつい香りで、高い天井がぼんやりと視界に描き出される。
 どうやら、簡単な寝台のようなものに寝かされていたようだ。
 強い香りを鼻腔に当て、無理やり起したのは、とても美しい青年だった。
 天井からの不思議な明るさのため、のぞき込むそれが、直視できないほど美しいことに気がついたのは、身体を起され、手に渡された厚いガラスを口に運ぼうとしたときだった。
 そして、不思議なことに、この青年が、ガッシュだと、わたしは知っていた。

 無駄な脂肪のない、ビロードのような肌には、絹の一枚布が腰にかけてぐるりとまかれ、肩から延びる腕にかけての筋肉は芸術と呼ぶにふさわしい。美しい身体、かたち、器。
 完ぺきさの中に、小石をひとつ投げ放ち、そこに、ほんの少しの不安の種を描く。その種は、見るもののなかで、じわじわと大きくなり、やがて、この美しく脆い青年の、素晴らしいアクセントとなる。
 完ぺきなものは愛されない。左右非対称の腕。右腕の切り落とされた肢体は、ギリシャ彫刻のようで、様々な想像と、憐愍を生じさせる。

 砂糖漬けのような熱い薄荷茶が、眠っていた思考を稼働させる。口に入った濃い緑を、奥歯で噛む。鼻に抜ける鮮烈な香りに視界は歪む。
 ガッシュは、そばでずっとこちらを伺っている。二杯目の薄荷茶が空いたとき、彼は、あちらへ、と促す。綺麗な顔は対称に動き、少し厚角の上がった口元は、柔らかに微笑んでいる。
 ガッシュの後ろを歩きながら、視線は四方八方に動き、この不思議な石造りの空間をどう形容したら良いか、呼び起こされた思考が必至になって、その答えを探している。

 高い天井からは、霧のような光が落ちてくる。壁を覆い尽くす勢いで、たくさんの鏡が飾られている。燭台は、整列を強要されたかのように姿勢正しく、一定の並びで炎が煌めく。祈りとも囁きともつかない声が、遠くからこぼれてくる。居心地の良い女性の歌声が耳元で弾ける。ぴかぴかに磨き込まれた漆黒の床は、ひんやりしている。そして、それは拘束されていない足の指に吸いついてくる。

 鼻をくすぐる甘く爽やかな香りが、控えめにこの青年から匂い立つ。ぐるぐると続く長い廊下。ここには小牢のような不愉快さはなく、雑多な足音もなく、静寂が横たわっている。
 時間の観念を失いかけたとき、その先に見える頑丈そうな扉をガッシュは軽々と音もなく開けた。

 扉の先には、目を疑う世界が広がっていた。
 大きな泉がひとつ中央に置かれ、それは、まるで枯れることを知らない。そして、それを取り囲むように小さな泉が三つ。泉というより、大きめのバスタブのような。その中には、たくさんの美しい薔薇が浮かんでいる。浮かんでいるというより、そこからわき出ていると言うほうが良いだろうか? 見事としか言い様のない。感嘆のため息までもが薔薇色に染まる。

 ガッシュは、向かって左の泉にわたしを案内し、その中に浸かるよう促した。
 まるで温泉のようだと思っていたわたしは、その冷たさにびっくりし、声をあげそうになった。彼は、しっ! と左手の人さし指を口に当てた。
 その中でわたしの世界でいうところの一日を過ごした。
 翌日は、次の泉で二日。
 そして、次は三日。
 最後に、中央の大きな泉で一日を過ごした。
 身体は軽くなり、わたしは声を取り戻した。

 そのあと、水晶で造られたような寝台に横になった。どこにいたのか、鏡を合わせたようにそっくりな美しい女たちが、その腕に大きな器を抱えて現れた。
 髪の色と瞳の色が違うだけで、この水蜜桃のような女たちの肢体は、どこを見ても同じだった。金の髪と銀の髪。翡翠の瞳とトルコ石の瞳。

 彼女たちは、わたしの左右にまわり、器に張られているとろみのある液体をわたしの身体にかける。これはなんだろう? 香油? それとも蜂蜜?
 つま先からふくらはぎ、下肢全体に、そして、腹部、胸、首へと、ゆっくりと静かに彼女たちの掌が、わたしを快楽へと導く。丹念に丹念に身体をもみほぐされ、媚薬のような薔薇の香りを浴び、繊細な指先は、わたしの上で優しく踊る。リズミカルに、さざ波のように、そして、わたしは深く深く落ちていく……。


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