Home--novela---紫鏡の刻印


 次に目を開いたとき、そこには、あのアシッドと呼ばれる男がいた。
 彼はわたしを抱き起こし、冷たい水を与えてくれた。
 ごくり、ごくりと喉が動いた。こんなに美味しい水は生まれて初めてだった。体液の静かな流れを感じる。肌にどんどん吸い込まれていく。細胞のひとつひとつで何かが弾ける。

 このみずは
 ここはどこなのか
 なぜわたしが
 あなたはだれなのか
 ゆめにちがいない

 自分の中から、今までの疑問がどんどんあふれてきて、それを声にしようとしたとき、アシッドはこう言った。

 いのちのみず
 ここはのがれのまち
 おまえがのぞんだから
 わたしはおまえ
 そうのぞめばゆめ

 わたしはお前。お前が望む全ての快楽を与えよう。
 食べるものも、飲むものも、着るものも、飾るものも、人としての尊厳も、女としての快楽も、何もかもここにはあるのだから。
 選ぶのはお前。
 義も悪も全ての表と裏。
 闇は、光なしには闇と呼べず、光は、闇なくして輝くことはない。
 ここを選んだとき、新しい世界は始まりもう一つの世界は終わりを告げるだろう。
 逃れの街はお前の虚でもなく、あの――の世界はお前の現ではない。
 わたしはお前。お前はもう一人のわたし。
 お前の選択はわたしの選択。お前の喜び、哀しみ、苦しみ、愛、嘆きは、すべてわたしのそれと同じであるのだから。

 わたしはおまえ
 わたしのよろこび
 わたしのかなしみ
 わたしのくるしみ
 わたしのあい
 わたしのなげき
 わたしのひかりとわたしのやみ
 ここはどこなのか
 わたしはだれなのか
 なにをのぞんでいるのか
 どこへいくのか
 なにから
 なにからにげているのか
 こたえは
 こたえはここにあるのだろうか

 ここはいごこちがよく
 やさしいきもちになれる
 おとこもおんなもうつくしく
 すてきなかおりといのちのみずがある
 かなしくなく
 くるしくもなく
 なげきのはへんもみつけることはできない

 なのに、なぜアシッドは何度もわたしに問うのだろうか?
 アシッドがわたしだと言うなら、なぜ彼はここにいろと言わないのだろうか? この喜びと美に充ち満ちたこの世界に。

 バザールのある店で綺麗な石を手に取った。
 くず石ばかりであっても、なかなか魅力的なデザインが並んでいる。
 金赤、琥珀、翡翠、水晶、真珠。沢山の石で装飾された指輪。首飾り。腕輪。銀の台に星屑をちりばめたような冠。
 ターバンのようなのをぐるりと頭から巻き付け瞳だけ出している野卑た男は、外国人と見ると、かなりの値段をふっかけくる。男は500ドル、そう言っている。
 雑多な匂いで埋め尽くされているこの場所で、男は、小瓶を取りだし、腕や手のひらに匂いを擦りつけている。猥雑で粉っぽく、天然ではない匂いが広がった。
 わたしはこの言い草と、この安物くさい匂いに、気分が悪くなった。くず石にそんなお金を出せるはずがない! と男に強く言い放ったが、だんだんと男の言葉だけが耳に響く。

 これは7と3
 4と7と、3と半
 ふたつで12
 それは、訳ありでね、売れないね

 翡翠のバングルを手に取ろうとしたとき、誰かが、間違いなくわたしの名を呼んだ。


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