Home--novela---紫鏡の刻印


 それは偽物だ!
 間違えてはいけない。この中に、唯一、価値のあるものがある。
 心を開け。考えるのではなく、感じとらねばならない。
 違うものを選んだとき、お前はもうここには還れなくなる。

 振り向いたわたしの目の前には、年齢の伺えない背の高い男が肩に鷲を乗せて立っていた。どこからか、薔薇とベルガモットの香りがした気がした。

 本物が持てば、くず石でも宝石に
 偽物が持てば、宝石もただの屑に
 ここに、磨けば光る石を感じることはできない
 それは、わたし自身が磨かれていないから

 そんな台詞がすらすらと口をついてでたことに驚いた。
 男は深い孔雀石の瞳を細め、右手で左腕をとんとんと叩いた。すると、肩に乗っている鷹が左腕にするすると歩いて来た。
 男は、鷹の首に飾られた、静けさをたたえながら紫色に輝く宝石を手に取った。ちょうど腕輪ほどの長さだろうか? そして、それをわたしの左手にくぐらせた。

 わたしのものは、お前のために
 これの左腕をお前の左手に
 お前の選択は、わたしの選択

 男がわたしの腕に通した腕輪は、素人目にもとても高価に思われた。
 金色と銀色の複雑に交差した台には丁寧な細工がされており、そこには大小様々な紫の貴石が、繊細に色を重ねながら埋め込まれている。
 その腕輪は、わたしの腕に不思議となじみ、その冷たさで、ぴたりと肌に吸いついてきた。

 ちっ! と言う舌打に振り向くと、男は、買わないのならあっちに行きな! と凄味をきかせ、蛇のような目で睨む。
 高すぎる。ありがとう。
 そう言いながら、なぜか咄嗟に左腕のバングルを右手で握りしめた。

 そうして、はっとした。
 さっきまで、この左手に張り付いていたはずの腕輪がそこにないのだ。
 夢を見ていたのだろうか? 
 きょろきょろとあの男の姿を探したが、男の姿はどこにも見当たらない。
 頭がおかしくなったのだろうか? あんなにはっきりと感じた存在が、錯覚? あれほどしっかり呼ばれたあの声が幻聴? 強烈に感じたあの香りはなんだったのだろう?

 おかしくって笑いながら露商を後にした。あの絨毯屋で飲んだミントティーに、幻覚剤でも入っていたのだろうか? それとも、まだ、覚めない夢を見ているだけなのだろうか?
 どれだけ進んでも、走っても出口が見えない。細く入り込んだここは迷路。煙草とスパイスと家畜の糞尿の臭い。どこから来て、どこへ向かっているのか。
 ひとまず宿へもどらなくては。
 この脚が疲労と冷えで動かなくなる前に、なんとか思考が動くうちに。

 心を開け。考えるのではなく、感じとらねばならない。

 右か左か、西か東か、上りなのか下りなのか。
 もう考える力は残ってなかった。

 小道を左に曲がると、そこは袋小路だった。
 そこには、少年が一人、ロバを撫でている。
 その少年に、街の中心にある、宿の名前を一生懸命叫んだ。発音が良くないのか、その少年には通じない。宿のカードを見せる。その少年は、手を引き、さっき来た道を上っていく。
 上っていく? ここまで上ってきたのに? 何を目印にしているのか、少年はぐるぐるとした小道を迷うことなく突き進む。

 空気が変わった気がした。目の前が急に明るくなり目が眩んだ。
 少年は、左手をとり、急ぎ進む。
 視野が開いたその先には、始まりが生まれようとしていた。
 陽が昇りは始めていた。

 少年は、どこを見ているのだろう? 美しく長い睫毛を震わしながら、瞳を閉じ、何か唱えた。祈りの言葉だろうか?
 まるで夢を見ていたような、そんな不思議な時間。疲れは、この雄大な景色の前で、どこかに消えてしまっていた。

 少年は、ひとしきり何か唱えた後、こう言った。
 ギブミーボールペン、ギブミーウォッチ、ギブミーマネー。

 その言葉を聞いて、一気に疲労が駆け巡った。
 ああ、これは現実で、夢ではない、のだと。

 胸に差していたボールペンを差し出した。少年はそれを手に取る。右腕にしていたスウォッチを少年に渡した。少年は、もっともっと! とせがむ。
 ここで拒否すると、もう二度と宿に戻れない気がして、右ポケットをまさぐった。
 そこに何か鈍い音が響いた。取りだしたそれをひょいと取り上げ、少年は、わたしの左手にそれをはめた。

 金色と銀色の複雑に交差した台は、横たわる二人の女性が丁寧に細工され、そこには大小様々な紫色が美しいグラデーションを奏でながら、繊細に色を重ね、腕輪の中心となる部分には、大きな石が色を変えながら光を放っている。
 少年は少し厚角の上がった口元に、満面の笑みを浮かべ、小さな小瓶をそれに振りかける。
 芳しい花の香りが、わたしの目の前に広がる。その薔薇色の液体は、わたし様々な記憶を蘇らせる。
 わたしを映し出すアメジストの輝きは、その腕輪は、わたしの腕に不思議と馴染み、肌の上で熱を持つ。
 そして、その熱で、わたしの中に消えない印と、わたしへの答えを刻みつけた……。


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