わたしがそこを訪れたとき、ピアノの前のソファアが空いており、とても座り心地の良いそれに身体を預けることができたのは、大変すばらしいことだった。今日は色々と大変だった。これぐらいのご褒美がないとやっていられない。
ドラマの影響か、リクエストかどちらでもいいが、ピアニストはオリジナルをかなりアレンジした「スマイル」を、その美しい指先から生みだしており、時折目の合うわたしに、とびきりの笑顔を贈ってくる。
「こんばんは、木下様」
「やあ、こんばんは」
「何になさいますか?」
「そうだね…いつもの胃薬を」
「かしこまりました。すぐに胃薬をお持ちいたします」
わたしはホテルのバーが好きだ。それもとびきり上等であるこのピアノバーは、わたしが最も愛するバーの一つと言って良いだろう。このヨーロッパの城を彷彿とさせる内装。極上のピアニスト。心地よい家庭的とも言える雰囲気で上手に包んだ最高級のサーヴィス。そして以外にも高くないその料金。
わたしのような若造が、いかにも慣れてますと言う感じで来れるようなところではないのだが、このあまりにも居心地の良いソファと音楽に、わたしは引き寄せられる。
「木下様、胃薬お持ちしました」
そう言って彼女は、わたしの胃薬、シュタインヘイガーを目の前に静かに置いた。
無駄のない流れるよなリズムで。高いヒール。その所作を少し間違うと下品にもなりうるスリットが深くはいったスカート。日本人にしては珍しくめりはりの効いた美味しそうな脚。そしてわたしにだけ向けられていると思いたいとびきりの微笑。
「ありがとう」
この笑顔につられるように、わたしの顔にも笑みが浮かぶ。
映画のワン・シーンが脳裏をよぎる 瞼を閉じて音に集中する。さきほどの彼女がわたしの名前を呼ぶのに気づかないほどに…。
「木下様! 木下様!」
「えっ? なに?」
「すみません、あちらの女性がこちらに同席させて欲しいとおっしゃっているのですが…」
そう言って彼女は、バーの入り口付近に一人たたずむ女を見やった。
「もし不都合がございましたら、お断りさせていただきますが…。お知り合いですか?」
わたしは、彼女の視線の先にいる、その女に目を移した。どこかで見かけた気がするが。
「この特別席を一人で占領するのは罪悪だね。どうぞ、お連れして下さい」
わたしはそう彼女に告げた。
鶴田一郎に描かれたような風ぼうのその女は、わたしに軽く会釈すると、静かに腰を下ろし、彼女も、わたしと同じシュタインヘイガーを注文した。シルクだろうか。とても上等に思える黒のワンピースにネックレス。そう、黒真珠の…。
わたしは思い出した。この女を。今日、あの最後の声をあげ続ける蝉の、高く空を仰ぐ枯れはじめの向日葵の側で、そこで影をなくして立ち尽くすこの女とすれ違ったのだ。日は高く、噴きだす汗をハンカチで拭うわたしと違い、色をなくした女は涼しげな、いや、氷のような目をしていた。
「ご無理をお願いしてご免なさい」
女は少しハスキーな声でわたしにそう告げ、静かにグラスを揺らす。透明の液体に、音もなく氷が溶け始める。そして、その液体が細い喉を通過してはじめて、柔らかな照明に浮かんでもなお蒼い彼女の頬に色が差した気がした…。
2002.10.02