
久しぶりにその扉を開けると、いつものシニカルな顔で会釈する彼。
深夜24時を過ぎた住宅街のバー 「J」には、先客が二名。わたしがスツールに腰掛けてまもなく、少し酔っぱらっている様子の彼らは、支払いを済ませて出ていった。
「久しぶり」
「うん、随分とご無沙汰」
お手ふきを受け取りながらのおしゃべり。
「何にする?」
「うーん…何にしようかな?」
少し悩むわたしの目の前に、静かに置かれたのは30年物のポート・ワインだった。
「どうしたの? これ?」
「君が飲みたいって言ってたから買っといた。これにする?」
判っているくせに、そんな言葉を吐く十年来の付き合いの彼。いけずなわたしは、こう答えてみる。
「うーん、30年ポートじゃ、今晩の予算出ないわ。ジンにしようかな」
「まあ、安くしとくから飲め!」
そう笑いながら、綺麗な指先を滑らかに動かし、目の前に置いたグラスに血色の液体を注ぐ。わたしはグラス越しに、小さなキャンドルを覗き込む。光と混ざり合った鮮血にため息が洩れる。並々と注がれたそれにくちづける。普段ならば、絶対にそんな下品な注ぎ方をしない彼の、わたしへのひとかけの友情が見て取れる。
「んまい」
わたしは静かにほくそ笑む。彼はグラスを磨きながら微笑む。
「あっ、お引っ越しカードありがとね」
「おう、いつでも来い」
「って、わたしに社交辞令は通用しないよ?」
「社交辞令なんて言ったことないけど?」
そんなくだらない近況をやり取りする。
それにしても久しぶりだ。行きつけの、馴染みのバーであったここ 「J」から、いつの間にか脚が遠のいて、わたしといえば「T」に入り浸りだったのだ。「T」のマスターとも、彼とも高校生からの知り合いで、どちらも大好きなお店だった。いや、少し違う。二人、を大好きだったのだ。
当時、二人とも雇われバーテンダーだった。
バーの雰囲気というか、大人の雰囲気に憧れていた小生意気な高校生のわたしは、小銭を貯めては通ったものだった。
その彼らも、一人は自分のバー「T」を構え、そしてもう一人のこの彼も、ここ 「J」のセカンド店のチーフ・バーテンダー(マスターと呼ぶべきかな?)である。時は確実に流れているのだ。
両方お気に入りなバーなのに、「T」に入り浸っていたのは、立地や価格の差だけではない。大好きなポート・ワインがメニューになかったからにほかならない。
数人でボトルを入れるような時は、ここ 「J」を。カウンターで一人飲むときは「T」をと使い分けをしていたのだが、夜中に飲み歩いてくれる貴重な友人達はどんどん減っていった。時代の流れを痛感するせざるえない。というか、未だ一人身な自分を恨めしく思う。
まあ、そんなことは置いといて…。
じゃあ何で今日はここに来たのだろう。飲み足りなかったから? いや違う。大好きな彼と話がしたかったのだ。遅くにお邪魔すると、確実と言っていいほど、スツールに座る客はおらず、カウンターで仕切られたあちらとこちらではなく、友人としてのおしゃべりが楽しめる。本来のバーというスタンスからは邪道だろうし、友人と思っているのはこちらだけかもしれないが。
うっかりチャージ料であるつまみを出し忘れたり、令口調に少し立腹したりはするものの、暖かい彼の言葉を受け取りに。リップ・サーヴィスだって構わない。だけど、サーヴィス・トークだけでは、もちろんあり得ない。
「うーん、こんなの置かれたら、こっちにも来なきゃ駄目だねえ」
「来たいときに来たら良いし」
「そんなやる気のない返事だと、「T」に行っちゃうよ?」
「まあ、あの店の良さも知ってるし。あんなグラス出された時には勝負できないでしょ?」
「でも、負けるとは思ってないよねえ?」
「頑固さも知ってるから、ね。それにさ、いつもはどうとか、あそこのあれが美味かったとか言っても仕方ないでしょ? 体調やメンバーで味は変わるし」
「まあ、ね…」
「そんなことより、今日この時間に、君がここに来てくれたことで十分やんか。飲んで欲しいと思って買っておいたこのポート飲んで貰えただけで良い一日、だろ?」
ああ、水商売の男って口が巧いこと。なんて思わない。だって彼のシニカルという仮面はほんの少し綻びて、その下から垣間見える暖かい気持ちが伝わったから。
「またおいで。君にしか出さないから、これ。賞味期限は早いよ」
ああ、何てことだ。やはり商売上手。リップ・サーヴィスか…。
「グラス800円っと……」
何ですと? 30年ポート、グラス800円! 15年ものでもそれぐらいとられるし、それでも安いぐらいだよ? 駄目駄目だね、やはり商売下手。そんな優しい君に乾杯!
2002.10.03