Home--novela---Bar「ガーターベルトの夜」



 雨の夜だった。
 男がぶらりと、慣れない様子でバーに入って来た。
 男は、きょろきょろと店内を見渡し、そこでバーデンダーと目が合った。バーデンダーは軽く会釈し、「こちらへ」とカウンターに促した。
 店内には他に客はいなかった。
 男は、目の前に並ぶ沢山のボトルと、奥のキャビネットの美しいグラスに目を奪われた。
「いらっしゃいませ。いかが致しましょうか」
 バーテンダーが男に問う。
「とりあえずビールを」
「生とペールエールがございますが」
「えーっと、生でお願いします」
 バーテンダーは、男におしぼりをだし、よく冷えたグラスに丁寧にビールを注いだ。
「アランフェス…」
「はい?」
「これ、アランフェス協奏曲ですよね?」
「えっ? ああ、はい。そうです」
 ある映画でとても効果的に使用されたこの曲を、「イノセンス」や「フォーロー・ミー」と言う客はいたが、「アランフェス協奏曲」と言った男は、ここ最近ではこの男が初めてだった。
 男は伊藤君子がいたく気に入った様子だった。
「すいません、僕、こんなお店初めてで、何をオーダーすればいいのか判らないんですけど」
 バーテンダーは静かに微笑んだ。
「外に、写真とか飾ってますよね? それを見て、ふらふらーっと入ってきちゃったんですよ」
「そうですか。お気に召して頂けると嬉しいですが」
「高そうだし、あまりというか、全くお酒に詳しくないので、少しびびりながらお邪魔した次第です」
 ぐいっとビールを飲み干し、奥のキャビネットに視線を動かした。きらきらと輝く磨きこまれたグラスをじっと見つめながら、男は、最近見た映画の話をバーテンダーに語った。
 表に飾ってある写真や店内に並ぶ女優らのポスター。そして、名刺の中から、こちらを伺うデートリッヒの瞳に、この店主の趣味を感じたからだろうか。
 冷やかしでぶらりと立ちより、こういった店に慣れていない男達が、居心地悪さに、興味もないくせに聞いてくる血液型や星座の話題に辟易としていたバーテンダーが、ほんの少しこの男に好意を持った瞬間だった。

「あのー、あそこに入っているグラス、使われているんですか?」
「ええ、あちらのグラスで何か作りましょうか?」
「本当ですか? 嬉しいなあ。でも、僕、カクテルとか詳しくないんですよ、お任せしていいですか?」
「もちろん」
 バーテンダーは、さっき男が話していた映画のイメージで、ロング・カクテルを作ることに決めた。
 底が厚く、ダイヤカットが正確に刻まれた熟年のボヘミアの紳士にするべきか、海の中で光がきらきら輝くように見立てるべく、丁寧に深くカットされたお気に入りのバカラにするべきか、そこが悩みどころで、腕の見せどころだった。
 バーテンダーも見に行くつもりの、この映画のイメージは深い青。
 キャンドルを灯し、ミントの飾られたこのカクテルをバーテンダーは静かに男の前に置いた。
 グラス越しの炎は、空から降り注ぐ光のように見えてくれると嬉しいと思った。
「綺麗ですね」
「中の角砂糖を潰しながら楽しんで下さいね」
 男はそれをひとくち口に運び、それから、マドラーで青の角砂糖を少し崩してみた。小さな気泡が静かに昇っていく。海中に生まれた小さな泡が、太陽を目指すように。人魚姫が流した涙の粒が、小さなため息が、出口を探して弾けて青に溶けていく。
「うわー、本当に海から生まれる泡みたいだ」
 その一言に、バーテンダーの口元が緩んだ。男は、ゆっくりと海のカクテルを楽しんだ。

「夢といえば…」
 クレオパトラズ・ドリームを背景に、男はぽつりと呟いた。
「先日、夢というか、映画のようなことがあったんですよ! あれはまさに男の夢、いやあ、浪漫、かな?」
「男の浪漫、ですか…」
「ええ、僕のように冴えない男には、まるで夢物語です」
「それは、それは」
 バーテンダーは男の次の台詞が想像できた。
 こういう場所で語られる男の夢、そして浪漫といえば、女の話が相場と決まっている。現実離れした美女とのワンナイト・スタンド? 助けた鶴が恩返しにと一夜の伽か?
 バーのカウンターで語られる男達の大げさな、武勇伝と本人が思っているそれらを、こちら側からみた際には、愛想笑いも固まるほどのくだらない駄話に過ぎず、そんなことを嬉々として話す輩に趣味の良い男がいないことをバーテンダーは知っている。この男もその部類かと思うと、バーテンダーは少し寂しくなった。

「ガーターベルト!」
「えっ?」
「ガーターベルトって、あなたは、えーっと、マスターは外したことあります?」
 急な、そして、突拍子もない問いに、バーデンダーは目が点になった。
「はっ?」
「ガーターベルトをカクテルにして下さい」
 男は、まっすぐにバーテンダーを見据えながらそう言った。
 こうこうこう言ったイメージで、とか、花や色のイメージ、なかには、わたしをイメージしてとか、そんな客もいたが、まさか、ガーターベルトとは。
 ぶらりと不慣れな様子で来店したこの男に、不遜さは伺えない。しかし…。本人が言うように、冴えないわけではなく、自分自身に気を遣えば、かなり上等に仕上がりそうな風情をこの男は持っている。
 試されている? バーテンダーはそう思った。

「難しいカクテルですね、少々お待ちいただきますが、よろしいですか?」
「はい、とても素敵な女性との忘れられない想い出が、それと結びつくんです」
 男は嬉しそうにそう答え、甘い記憶をたどるかのように目を細めた。
 ガーターベルト、ガーターベルト。素敵な想い出……か。
 丁寧に整えられた爪の先に乗る紅いエナメルが、薄絹を引き上げる。色は黒と決まっている。映画に見るガーターベルトは必ず黒である。しかし、黒いカクテル? ヴァイオレットはどうか?
 白? 白にエロティシズム? 白で、この言葉から連想するところの甘い妄想を表現するには難しすぎる。
 ピンク? 何だか淫靡な映像が踊りだす。途端に安いフィルムの一遍に成り下がる。
 一夜の恋? 忘れられない想い出? あとから男の話を聞いてみるとしよう。それが本物か否か。バーテンダーはそう思った。
 うーむ。バーテンダーは表情を崩さないまま、思考のみフル稼働させていた。

 バーテンダーは、キャビネットの前に立ち、どの美人にするか、慎重に考え、それを選んだ。そして、頭の中で完ぺきに仕上がったレシピを再現する。
 男は、不思議そうな目をバーテンダーに向けていたが、そのカクテルが仕上がり、目の前に置かれたとき、感嘆の声をあげた。
「飲むのが惜しいぐらいですね」
「ありがとうございます。脳みそをフル稼働させて作りました。イメージにあうかどうか」
「なんて名前ですか?」
「”ガーターベルトの夜に”なんてどうでしょうか?」
 ”ガーターベルトの夜に”は、リム部分に、赤でスノースタイルを施され、くるくると剥かれた林檎の皮がベルトに見立てられている。心臓(ハート)をイメージした桜桃は、バーテンダーお気に入りのアンティークの銀のカクテル・ピンで射ぬかれる。そして、心臓から流れ出る処女の血がグラデーションを描いている。
 チューリップのようにリムが広がる肢体に、繊細な長い脚。チャームポイントである、大きな十字架で、一世紀以上もの間、スツールに越しかける男と女の秘め事を優しく見つめ、そして見るものを虜にしてきた美女。彼女の名前はトスカ。
 数あるグラスの中でも、バーテンダーが最も気に入っているグラスで、彼は自分のイメージをそこに作り上げた。
 なかなかのできだ! バーテンダーはひとりほくそ笑む。
 男は、繊細な脚部を撫でるように持ち、赤いレース部分に口付ける。そして、不思議な顔をバーテンダーに向けた。
「甘い? あのー、マルガリータとか、ソルティー・ドックみたいに、塩じゃないんですか?」

 男の浪漫は、夢は、甘いものだから………。
 不敵な笑みを浮かべ、バーテンダーは、男に言った。
 そう、苦く塩っからいものなど、ここには、あなたの夢には必要ないでしょう?


2004.10.15



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