早足で通り過ぎる雑踏。ほんの少し風を感じて、きらきら反射する光の先に、春色のブラウスが目に留まる。
今、流行の柔らかいふわりとしたラインの、自分には全く似合わないブラウス。白と黒と、そして綺麗な桜色がわたしの心をくぎ付けにする。
シンプルな服が好きな母は、いつも、洗濯のしやすい全く装飾のないものを選んだ。そして、子供に着せるにしてはシックというか地味な色ばかり好んでいた。黒、白、グレー、紺。女の子の色というより、むしろそれは男の子の色み。
時々、父が買ってくるシャツも、いつもわたしは男の子の色で、綺麗な赤や向日葵色なんかは、妹のためのものだった。
祖父母が買い与えてくれるワンピースなんかも、いつも決まってわたしには白か紺色だった。この色はとても賢く賓良く見える色よと言われても、わたしには判らなかった。だって、妹にはいつも綺麗な色のレースやフリルのついたものを選んでいたから。
約束の時間に遅れそうであったことを思い出し、わたしは後ろ髪を引かれながらそのお店を、ピンクのブラウスを後にする。
わたしの恋人は、時間に正確な人だから、もうすでに待っているはずだ。いつも五分前には、そこにいるのだ。
案の定、彼はそこにいた。駅からすぐの本屋さん。今、とても興味を持っている料理本のところで、真剣に物色中であった。
わたしは、彼の右手をこんこんとこつく。彼は、わたしに気づき、優しく笑いながら「これとこれどっちが良いと思う?」と、ビストロ・スマップと、 ケンタロウのおかずの王様を両の手に持ってわたしに聞いてくる。
「じゃあ、ケンタロウで」
「おーげい! おーげい! こっちのが簡単そうなのな!」
「結構すぐ実践できそうだから、今度作るよ」
にこにこ顔の彼。
「料理できる男は三割増しで男前だよーん」
おだてるわたし。
今晩は、ホット・ペッパーに載っていた、小洒落たおばんざい屋さんで食事を頂くことにしていた。
まだ少し早い時間だったので、わたしたちは食前酒を頂こうといつものバーに向かう。
さっき来た道をゆっくりゆっくり、おしゃべりしながら歩く。
日が落ちるのがずいぶんと遅くなった春の空の下、彼がちょっと照れ臭そうに手を繋ごうとしてきたから、わたしは、その手にほんの少し力を入れて握り返す。二人ともずっと忙しかったから、今日は本当に久しぶりのデートらしいデート。
反対側のお店。黒のブラウス、白のブラウス、桜色のブラウスを通りすぎた。その時、彼が急に踵を返し、ウィンドウに、わたしを引っ張った。
「ねえ、これっ!」
「んっ?」
「尚子がカワイイって言ってたのに似てない?」
「うん…似てるけど? そんなの覚えてたの?」
ずいぶんと前、ファッション誌をぱらぱら見ていたとき、そんな話をしたような、しないような。適当に相づち打たれていると思っていただけに、わたしはとてもびっくりしたのだ。
「尚子に似合いそう。おいで!」
彼は急にそう言って、わたしの手を握ったまま、お店に入って行く。
「尚子は何色がいいの?」
「どの色も素敵だけど…」
一番心惹かれたのは、桜色の綺麗なブラウス。
でも、こんな可愛らしいフリルのデザインなんて着たことがないうえに、自分の色じゃないピンクを口に出すことができなくて、わたしはいつものように、白かな? と答える。
「いらっしゃいませ。そちらのデザイン素敵でしょう?」
同じタイプの少し丈の短いブラウスを着た賓の良い女性が応対してくれた。背のあまり高くないこの人には、その着丈がとても良い感じである。
彼女は、マネキンから白のブラウスを外して、どうぞ着てみて下さいと、わたしに手渡した。
ジャケットを脱いで、その上から羽織る。くしゅくしゅっとした大きなフリルになっている襟部分は、開けて着ても良いし、ジャケットインでもとても素敵で、あれこれ着回しが効きそうで。ボトムにパンツを持ってきたら、そんなに甘くなく、流行のスカートを合わせたら、きっととても可愛いだろう。わたしには、無理なコーディネートかもしれないけど…。鏡の前でそんなことを考える。
「似合うじゃん」
「背がおありだから、こちらのデザインとてもお似合いですよ」
そんな風に言われると、やっぱり嬉しくって、その気になったりする。今月厳しいけれど、無理しちゃおうかな? などと思いながら、ひっそり値札を見ると、17800の文字に驚愕。ふーーーーうっとため息が漏れる。
そんなわたしの気持ちを知らずに、彼は「尚子、このピンクも着てみたら? 着るのはただだし」などと言っている。店員さんも、にこにこしながら、マネキンからピンクを外して持ってきてくれた。
「お顔の色にも、この桜色はとてもお似合いだと思いますよ」
「尚子、こんな色着たとこ見たことないけど、きっと可愛いと思うよ」
少しどきどきしながら、桜色の袖に手を通す。ばっさり内に入った髪の毛を、背後に立った彼がかき上げて、肩に手を置いて、鏡の中のわたしの瞳を見つめるから本当に困る。その瞳が、似合ってないと訴えている気がして、不相応な物に手を出してしまったような、そんな気まずい感じがわたしを襲う。
「すっごい、似合うのな、お前。その色、顔色が明るく見える!」
彼は、にこにことほほ笑みながら、魔法の言葉を一振り、二振りわたしに与えてくれた。そして、もう一振り。
「綺麗じゃん。これにしよう!」
「このピンク、頂きます」
「えっ? ちょっと、健司、これ、値段すごいよ。わたし持ち合わせが…」
そう小声で健司に囁く。
「お兄さんに任せなさい!」
「ありがとうございました」
店員に見送られ、オレンジ色に染まりかけた街の中、わたしは、健司の顔を見上げた。
「ねえ、どうして?」
「ん? 何が?」
「あのブラウス…」
「…?」
「あのブラウス…とても欲しかったの」
「うん」
「あの、ピンクも…」
「似合ってるよ! 尚子は別嬪やから、何でも似合う」
「もう、そんな見え透いたお世辞はいいから!」
「あはは! でも、まじで、すんごい似合ってるのな! あの色もデザインも。俺が可愛いって言ってるんだから、信じろ」
「…はい。ありがとう。あの色、すごく着てみたい色だったの…」
「知ってるって」
「何で?」
「何でも。お前のことは何でも知ってる! えへん」
すごく大きな身体に、とても細やかな気配りができるこの愛しい男は、その後、こう付け加えた。
「今晩、尚子ちゃんは月の来客で、いちゃいちゃできないから、お礼は今度、倍返しでよろしく!」
「ぶっ!」
愛しい人だなあ。ほんとに。優しくて、可愛くて……。
わたしを見つめるこの輝く瞳が曇らないように、わたしの心も磨いていこう。輝く何かを与えることができるよう、理解しあえるよう、愛し合って、笑いあって、たくさんたくさん話をしよう。握った手をもう話さない。これからは、ずっと一緒に…。
何かあったら、ここをもう一度見直して、そう思った自分を疑わず、健司を信じて歩いていこう。
これからは一人じゃない。もう振り向かない。前を見て、顔を上げて、手を繋いで…。
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