Home--novela---Castrated flowers




 深夜、ワンルームにもどると、とても強い香りに眩暈を覚えた。この異様な香りの正体はなんなんだろう。

 月明かりを頼りに目を凝らすと、浮かび上がる白く妖しいその影。それは、見事に蕾を開花させた、大輪のカサブランカだった。
「ひとつ、ふたつ、みっつ…」
 声を出して数えてみた。よっつも花が咲き、そして今にもその柔らかな膨らみから媚薬にも似た香りを放たんとする蕾がみっつ。
 気分も悪くなるはずだ。10帖の洋間にロフトスペースしかないこの部屋は彼女達には狭すぎるのだ。
 わたしは窓を開けた。この毒々しいまでに強烈な甘い香りを入れ替えるために。晩秋の冷たい風は肌を刺す。しかしその空気は清々しく凛としている。花達が微かに揺れる。月の光を浴びて今、静かに踊り始める…。

 女は、より女であることを証明するように、柔らかな物腰で男を誘う。
わたしを女にして。あなたの女にして。
 淫らな唯一の願望をうまく隠し、その甘い香りで男を誘惑する。
 強い男が好き。頭のいい男が好き。セクシーで、優しい男が好き。
わたしを魅了して。わたしを愛して。わたしがより美しくなるよう、そうして。
 女はすでに男を受け入れる準備を整え、その膨らみをより堅くし、男の機が熟すのを待つ。しかしその時は来ない。永遠に…。
 そう、待ち続けて、恋い焦がれて、その濡れた体躯は静かに枯れていくのだ…。

 百合の花粉は、肌につくとなかなか取れない。どれだけごしごし洗っても、だ。それが布に付いたら最悪で、それは鮮やかな染みとなり、そしてその布はその役目を終える。
「服に付いたら大変」
わたしは、ティッシュを片手に、彼女達を去勢し始める。
「ご免ね、実を結ぶことなく終わっちゃうね…」
 そんなことを言いながら、ティッシュで、花粉をたっぷり付けた男性自身を優しく取り始める。ひとつの花にむっつ。花びらを汚さないように、触れさせないように。そう、受粉させないように…。開きかけの蕾もこじ開け、手術を施す。
 まだ熟れてもいないかわいそうなそのシンボルを…。


***


 夢見の悪い朝だった。良い夢ではないという曖昧な記憶だけが強く印象に残り、内容は覚えていない。
 慌てて身支度を整え、駅へ向かう。また目まぐるしい一日が始まろうとしている。
 駅前の小さなデザイン会社。そこがわたしの職場だ。8名ほどの、小さなオフィス。
 今日は、某社のプレゼン用のデザインが、誰の手に委ねられるか決定される。 普段となんら変わらないようで、わたしにとっては重要な日だった。
 わたしと、同じ美大からの友人、滝。そして縁故で入社した、3歳年下の愛子のうち、誰かがこの仕事を手にすることが出来る。
 どう考えても、愛子はあり得ない。わたしか、滝か、どちらかのはずだ。
 わたしには自信があった。この仕事を理解していたし、クライアントの希望をより的確に形にしたという強い自信があるのだ。
 いつもなら、朝のミーティングの際にその発表がある。しかし、今朝は社長がいない。直接クライアント先に出向いて、昼過ぎの出社予定だ。
 いつものように、パソコンを立ち上げ、メールをチェックする。クライアントからいくつか変更依頼が入ってきている。電話のやり取り、ファックスでのやり取り。雑務の合間に、折を見て隙を見てのデザインの仕事。名刺にはデザイナーなんて肩書きがついているが、嘘っぽさは否めない。この会社で、デザイナーと呼べるのは、山崎ぐらいしかいなかった。そう、彼のいない今、我が社には、デザイナーと呼べる人材は存在していないのかもしれない。

 滝に誘われて食事に出た。
 滝はアトリエ時代から大切な友人で、感性を刺激してくれるの数少ない人物だ。その風ぼうと違い、とても繊細な絵を描く。優しい色で、ほっとさせられるそんな作品達。

「なあ、今回の仕事、どうよ?」
 ニラ玉をつつきながら、滝がわたしに問いかける。
「どうって何が?」
「自信、ある?」
「……」
「ただ…」
「ただ?」
「どうしてもやりたいの! あの仕事」
「……山崎さんのクライアントだったから?」
 視線を上げ、滝はそう言った。わたしを非難するかのようなその口調とは裏腹に、その瞳は哀しい色で満ちている。哀れみの、同情の、色。
 わたしは吐きそうになった。昨晩感じたあの重い香りが鼻腔を刺激した気がした。そんなことあるはずがないのに…。わたしたちは今、定食屋でニラ玉を食べているのに。
 半分以上残したその定食を、滝は「じゃあ俺が」と言い、ぱくついた。
 むかつく。わたしをこんなに不快にさせた本人は平気で、おいしそうにわたしの定食を食べているのだ。

 山崎さんのクライアントだったから?
 気付かないふりをしていた棘は、やがて心臓に到達する。
 山崎彬。わたしが初めて好きになった男。わたしを女にした男。わたしを知っている唯一の男。そして、一緒のお墓に入ろうと約束した男。でもその約束は果たされることはない。彼は、もう逝ってしまったのだから。

***


「……のデザインなんだが」
 18時の最終ミーティングで、社長はわたしたちにこう切りだした。
 このミーティングの後、帰宅してもいいし、そのまま仕事を続けてもいい。各人が責任を持って仕事に取り組め。それが社長の口癖だった。

 滝に決定しても、わたしになっても今日は仕事を終わらして飲むぞ。二人でお祝いだ。わたしはそう思っていた。

 がつんと頭を叩かれたそんな衝撃ではなく、針でつつかれた風船のように、目の前が弾けた。遠くで、おめでとう。すごいじゃん。そんな声が聞こえる。ざわざわとした雑音…。小さな部屋なのに、なんでそんなに声が遠いのだろう? ああ、これは夢だから、だ。わたしは、仕事に行った夢を見てるんだ。この遠い音は、雑音は、テレビが付いた音なんだ…。テレビを消して! うるさい、うるさい、うるさい!

「愛のデザインで行く。多少手直しは必要だがな。愛、よく頑張ったな! 以上」
 夢ではない? これは、現実なの…?

 愛子やみんなの前では、さも平気なふりをして、お祝いの言葉なんかをかけている自分に反吐が出る! でも納得がいかない。何故、愛子のデザインが。滝のデザインなら諦めも付く。でも、でも、でも!
 愛子のデザインが選ばれた理由が何なのか、理由が知りたい。説明が欲しい!
 わたしは納得がいかず、席を立ち、社長の元へ向かった。
 しかし、わたしの腕を掴む強い力に引き戻された。滝だった。
「さっ、由姫、残念会と行こうか!」
 滝はそう言うなり、わたしの鞄と上着を取って、わたしを外へ連れ出した。趣味の悪い飲食店の看板。最低。高笑いする女の声。耳に障る。でも、その腕の力を緩めない滝に一番腹が立つ。
「いい加減にしてよ! 滝! 放してったら!」
 自分でも思いもしなかった大きな声に、いくつかの影が振り向く。力を緩めない滝に連れられ、やって来たのは馴染みの店。いや、馴染みだったお気に入りのバーだった。

 入り口で一瞬躊躇するわたしにお構いなしに、滝はその少し重い扉をくぐる。落ち着いた照明の、シンプルで趣味の良い店。山崎といつも飲みに来ていたお気に入りのバー。
 マスターの木戸さんが、軽く会釈する。いつもと変わらない。山崎を失って以後、訪れることが出来なかったわたしに、あの頃と同じ優しい笑顔で迎えてくれた。ここはあの頃と同じなのだ…。

***


 まだ少し早い時間のバーには、わたしと滝だけしかいない。いつもの場所に腰掛け、いつものを飲む。
 重たい空気の中で、饒舌なのは柔らかな光の中で波打つ琥珀色の液体だけ。何もなかったように、至福の記憶だけを呼び起す。三杯目のグラスが空になり、滝がやっと意を決したように口を開いた。わたしへの刃のように切りつける愛の言葉を。

「愛子のデザインが選ばれた理由は俺にもわからない」
「えっ?」
「でも、お前のデザインが選ばれなかった理由はわかる」
 わたしのデザインが選ばれなかった理由? なにそれ? 愛子のデザインに劣るっていうの? あの、わたしの企画が?
「どういうこと? わたしのデザインのどこが愛子に劣っているの? 滝のデザインで行くというなら納得できるよ? でも、何故愛子なの?!」
「もう気付いても良いころだぞ。由姫」
「何を?」
「いい加減気付けよ」
「だから、何を?」
 何が何だか、さっぱりわからない。理由を訊かされないかぎり、納得できない。納得できる答えを訊かせて! 完璧な仕事をしたはずなのに!
 色も、構図も、書体も、すべてに気を配って、そう、気を配って、山崎のように!

 山崎のように…?
「あっ…」
 わたしは、声を失くした。ぼんやり顔を上げると滝のの瞳とぶつかった。そこには、お昼の定食屋で見た同じ色の表情が浮かんでいた。
「最初は、俺も気付かなかった。あの画を見るまでは…。あんだけの強さとアクをもった男とずっと仕事してたんだ。影響されないわけない。でもな、でもな、由姫!」
 頭が割れそうだ…。このまま倒れてしまいたい…。ああ、彬! 神様!
「テクニックはいくらでも盗めばいい! でも、自分を、自分の色をなくしたら、それはもう…!」

 滝は、それ以上言わなかった。大きな身体に似合わない優しい顔。その瞳からは、言葉に乗せることのできない彼の想いが連弾の音符のように溢れ出している。
 彼の言葉は、わたしの棘に働きかけ、その棘は確実にわたしの心臓を捕らえた。

「アトリエ時代を覚えているか?」
滝は独り言のように言葉を綴る。
「あの頃の由姫の画、俺好きだったな。普通だいたい、何らかの個性というか、影響受けて、ぞれなりの色っていうものが生まれてきてるんだけど、お前の画には、色がなくって、奥西さんとか山本先生なんかもどう色が付いていくのか楽しみだって、そう言ってたよな…。お前はさ、そう言われて少しショックだったみたいだけど、下手な色がないってことは、何でも吸収できてどんなふうにも染まれるってことなんだよな。そんなお前だから、山崎さんが魅かれたんだよ。彼は、由姫の本質を、何にも染まってない綺麗なところを愛したんだ……」

 そうだ。癖がない、色がないと言われ、オリジナリティと言う言葉に一番引っ掛かっていたあの頃に、山崎は、彬は、時間はまだまだある。どんな色にも染まることの出来る、純粋な白でいろ。そのうち、ほっといても自分が見えてくる。お前はそのままでいい。そう言ってくれたのだ。

「山崎さんと付き合いだして、由姫、変わったもんなあ。いい女になったよ」
「……」
「彼の色に染まって、背筋の伸びたいい女になった。でも、でもな?」
「……」
「自分を見失うな? 彼のように生きなくていいんだぞ?」
「……」
「山崎さんの亡霊に、引きずり込まれたら、駄目だ!」
 その言葉は、杭となり、わたしの心臓を貫いた。
 ここで負けるな。踏みとどまれ。彼はそう静かに吐いて、時間の止まったこの場所から重い足取りで出ていった。

 グラスはすでに空になり、お替わりを木戸さんに促す。彼は、いつもと同じ流れるような動きで、ドライマティーニをわたしの前にひとつ。そして、かつていつもそこにいた、今は不在の亡霊にもグラスを置いた。
「今日はこれで終り。彼とじっくり飲みなさい…」
 その言葉は、とても素直にわたしに染み入った。わたしは、わたしの右横に陣取る山崎に話しかける。
 けれど彼は何も答えてはくれない。きりりと冷えたその液体が、生ぬるさに堪えかねて悲鳴を上げた頃、わたしは苦痛に満ちた現実へと続く重たい扉をくぐった。

***


 月は傘を差している。わたしにも傘が必要だ。はらはらと流れ落ちるこの雨粒から頬を守る傘が。ずっと降りやまない心に落ちる哀しい現実から身を守る傘が。

 明かりのついていない部屋に戻った。玄関で感じるとても強いある違和感。この違和感の正体はなんなんだろう。
 急に目を刺すライトに浮かび上がる白い影。それは白い花。大輪のカサブランカ。
 何かが違う? わたしを襲う、この違和感の正体はなになのか?
 その違和感の正体は、不在という存在。それに気付いた時、胃の中に無理やり閉じこめた記憶が逆流し、わたしは全てをぶちまけ嗚咽を漏らす。

 
Castrated flowers

 去勢された花達からは、なんの香りも放たれていなかった。それは、まるで今のわたしのようだった……。


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