Home--novela---始まりの飛行機雲




 物事には必ず、始まりと終りがあるはずなのに、わたしたちはいつもその始まりと終りという点を、どうもぼんやりと見過ごし、「いつのまにか」とか、「気がついたら」とか、そんな言葉でうやむやにする。それが悪いと言っているわけではなく、ただ、時々その始点を曖昧にしたことが悔やまれてならないだけだ。

 始まりがあって終りがある。それらは全ての表と裏。始まりのない終りはないのだ。

 時々目にするあれはどうやって生まれるのだろう。ふと空を見上げたときに時々目にする力強い一筆。柔らかで緩やかな白いリボン。飛行機雲がどのように発生するかなんて、そんなこと馬鹿なわたしには判らない。そしてそれは知らなくて良いことなのだ、きっと。

 夕焼けが美しい空には、珍しく雲がない。そしてそこに走る強いペン先。それは、終りに向けて、そう地上に向う飛行機の残す軌跡。あの飛行機雲はどこで生まれたのだろう。軌跡のしっぽ部分で始っているであろうことは想像できるのだけど、飛行機雲の始まりなんて見たことのないわたしには、それが想像できない。

 始まりが想像つかないことは沢山あって、それはわたしと彼のこともその一つだ。

 ただの講師と生徒。それ以外の何ものでもなく、見た目の良いその男に恋人がいるのを想像するのは容易い。
 同じクラスだけでなく、他の教室の生徒もこぞって彼のファンだった。が、わたしはそうではなかった。確かにルックスは良く、デッサン中における彼の左腕の筋肉や木炭を握る指先は、黒く汚れていても美しかったし、少しかすれたその声は、なかなか魅力的なものだった。しかし、わたしは彼の口元に張り付く髭が嫌いだった。若い男に髭は似合いはしない。

 同じ高校からの友人達とは違うクラスだった。そのクラスではすでに、派閥のようなものができており、六月からの新参者のわたしには、なかなかなじめるものではなかった。だから、いつも教室の端っこで黙々と授業を受け、それが終わるとすぐに教室をあとにした。

 午前と午後からの二クラスを終え、久しぶりに市のプラネタリウムに向かったある日、そこで彼に声をかけられた。
「君も息抜きか」と。
「ええ、ここのガイドの声が渋くて素敵なんです」
 わたしはそう答え、いつもの一番良い席に向かった。ちょうど真ん中の一列目。ここなら脚をゆったりと伸ばせるし、天井に瞬く星達がとても良く見渡せる。見渡せるといっても、わたしの瞳にその星の欠片たちは届くことはない。不眠に悩まされているわたしはここで、いつも昼寝を楽しむのだ。低く優しいその声に導かれて半時間ほどのまどろみを。

 わたしを呼ぶ声に目を覚ますと、そこには彼の顔。似合いもしない髭がそこにあった。あまりの心地よさに本当に眠っていたようだ。

「もう閉めるって」
「ああ…」
「まじ寝てたな」
「……」
 そう言いながらくすくすと笑う髭。わたしたちは、ひんやり冷えた部屋からまだ強い日差しの廊下に向かった。そして、わたしはぼんやりとエレベーターが来るのを待った。

「はい、これ」
 彼が手渡してくれたのは、冷たいお茶。わたしはそれを受け取り彼の顔を見る。
 「ありがとう…」
 そう言って、ジーンズのポケットに入っているであろう小銭を探す。そんなわたしを見て、彼はこれぐらい奢らせてよと、またくすくす笑う。
「御馳走になります」
 わたしは、素直にお礼を言った。七階から一階に降り、廊下にある椅子に腰掛けお茶を飲んだ。体中に染入っていく。とても美味く感じられた。
「カポーティとか好きそうだよね」
「えっ?」
「いや、カポーティとか読んでそうなタイプかなって思ってさ」
「そう言うの、決めつけられるの好きじゃないんです」
「…なるほど、ね」
「先生は、ブラッドベリとか好きそうなタイプですね」
「なかなかの洞察力だね」
「お尻から覗いてますよ、顔が」
 ジーンズの尻ポケットに無理やりに押し込まれた文庫本がブラッドベリだったのだ。

 お茶を飲みきり、わたしはもう一度彼にお礼を言い、駐輪場へと向かった。この時期の駐輪場は一杯で、表通りまでバイクを押しながら向かう。通りでキックをしていると、そこに再び彼が登場した。
「あれ? お前、バイクなんて乗ってたの?」
「ええ、まあ」
「アトリエには乗ってきてないじゃん?」
「いえ、いつもバイクです」
「そうだっけ?」
「わたし、来るのもぎりぎりだし、帰るの早いから気づいてなかったんじゃないですか」
「そっか…」

 そう言いながら、彼は目ざとくもう一つのヘルメットを見つけ、駅まで送ってくれなどと言う。駅まで徒歩七分。
「駅、すぐそこですよ?」
「いいじゃん、T駅まで送ってよ」
「……」
「ほら、お茶奢ったじゃん」
 わたしは諦めて、彼にヘルメットを渡した。
「俺が運転していい?」
「安心して後ろ乗って良いんですか?」
「それ、どういう意味かな?」
「まず、バイクの免許はお持ちですか? 運転技術は? 先生を信頼できますかってことです」
「なかなか手厳しいこと言うね。俺の愛車はドカティと408なんだけど…。性格はともかく、運転技術はそこそこかな」
 と、言い終わらないうちに彼はわたしのバイクに跨った。ため息をつきながら、わたしも後ろに乗った。日はまだ高かった。重たく熱を伴った風が肌に張り付こうとした瞬間、彼はアクセルを吹かし、急発進した。

 後ろに引っ張られ、慌てて彼のお腹に手を回した。
うわっ!信頼できない。それが感想だった。技術うんぬんより、後ろに見ず知らずの人間を乗せたときに、こんな運転するなんて信じられなかった。

「!!!」
「何?」
「お前、軽いな」
「はっ?」
「体重、軽い。バイクも軽くて面白いな、やっぱオフは」
 彼は口元だけでなく、目も笑っていた。しっかり掴まってろと言い、車の間をするするとすり抜けて行く。そのブレーキングや加速具合がどうも自分のタイミングと違い疲れる。でも、ただぼんやり運転しているわたしと違い、そのタイミングは絶妙で、それに身を任せてしまうと、案外居心地の良いものになる。

「お前、時間ある?」
 彼が大声で訊いてくる。
「はっ!?」
「お前、時間ある? って言ったーーー!」
「……」
「ちょっと遠回りしていいか?」
 思わずため息。そして頷く。
 目に付くものにすぐ見入ってしまう性格のわたしの運転は、往々にして危険をはらんでいる。こんなふうに、街路樹や空、庭先に植えられた天を目指す向日葵、家路に急ぐ鳥たちの姿を目で追うことのできる、彼の背中に張り付いた荷物状態の自分が、とても気持ち良かったのだ。だから、頷いてしまったのだろう。

 彼は川沿いに折れ、スピードを落とす。空が良い色に染まり、目の前には一筋の大地に向かう軌跡。左前方には雲間から柔らかい梯が降りていて、そこに向かう白い線。やんわり染まりつつある幾多にも重ねられた絵の具たち。あの飛行機雲はどこで生まれたのだろう。軌跡のしっぽ部分で始っているであろうことは想像できるのだけど、飛行機雲の始まりなんて見たことのないわたしには、それが想像できない。

 そこに突然、そう、突然、発生したもうひとつの飛行機雲。

「あっ!」

 グラデーションに染められたキャンバスに、ナイフで切りつけたように生まれた白い跡。振り下ろされた筆先がいつのまにか勢いよく踊りだし、その始点である飛行機は、終点である地上を目指している。

「今の、今の見た!?」
 彼が大声で叫ぶ。
「今のって?」
「あの、飛行機雲の始りー、見たか?」
「見たーーーー!」
「生まれて初めて見たーー! あんなのーーー」
「わたしもーーー。今日はラッキーかもーーー」
 その答えに、笑いながらアクセルを吹かし、雲を追い越そうとする彼がいた。

 物事には必ず、始まりと終りがあるはずなのに、わたしたちはいつもその始まりと終りという点を、どうもぼんやりと見過ごし、「いつのまにか」とか、「気がついたら」とか、そんな言葉でうやむやにする。それが悪いと言っているわけではなく、記憶の片隅にほんの少し場所を見つけてやれば、その想い出たちは、日常を彩るとても素敵なスパイスとなる。そのスパイスの効かせ具合で平凡な日常は違う色を帯び、そこから、優しい気持ちが、愛しい気持ちが呼び覚まされるのだ。

 長年付きあっているわたしたちの始り。今思い返せば、それが、彼との始まりだったのだ。曖昧にしたらもったいないほどの美しい景色の中で、同じ感覚の中で。それがわたしたちの始点。始まりの瞬間だった。


2002.7.24



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