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亜熱帯の体温



 税関を通りすぎると同時に押し寄せる人の波。その匂いはアジア独特のもので、美奈子はそれが嫌いではなかった。しかし、無理やり荷物を手に取り、たかだか50メートルや100メートルの距離を運び法外なチップを要求してくる輩には、やはり嫌悪の感は隠せない。持っているものが持たざるものに施しをするのが習慣になっているお国柄としてもである。
 仕事に就く前にアジア各地を旅行して回っていた美奈子は、そのへんの事情は知っていたし、施せる側に自分がまわれるなどとは思いもしなかったが、感謝の気持ちを表す手段として、心遣いをしてきたつもりであった。しかし、それは自分が納得してのチップなり心遣いである。不当な、強引なサービスに対して、それをするつもりは美奈子には毛頭なかった。
「ノー。ノーサンキュー」
「ニホンエン、オーケーネ。1000エン、1000エン」
50メートルの荷物運んで、運んでと言うよりがらがら押して、それが1000円になるならわたしがその仕事をしたいくらいだ、美奈子はそう思った。
 しかし、彼らをこのようにしてしまったのは、日本人観光客達であるのを美奈子は知っている。
「ありがとね、サンキューサンキュー。あ、小銭ないや、ルピアないわ」
そう言って、彼らに1000円札を渡してきたのは馬鹿な日本人たちなのだ。 彼らに支払った時給ほどの金額が、この国ではどれだけ高額であるか知りもせずに。自分たちの 優越感を満足させ、純朴なその国の人々達に、小狡い生活の知恵を与えたのは、日本人である。
「ノーサンキュー」
 小さめの彼女のキャリーバッグを握って放さない男に、彼女はもう一度そう告げた。
そこには日本人独特の、曖昧な表情はない。それでも若いその男は、握った荷物を放そうとしない。
 「アイ セッド ノー!」
 もう一度、ゆっくりとはっきり彼女はそう告げ、強い視線を彼に向けた。
 男は残念そうな視線を美奈子に落としながら、次の旅行者に、新たなカモに足早に近づいて行った。

 ゲートの外に出ると、今まで以上の熱気に圧倒される。
客引きの男や、白タクのドライバーがしつこく彼女に声をかけてくる。それらをさらりとかわし、彼女の名前のボードを持つ現地ガイドの元へ足早に急ぐ。
「ダイジョウブデスカ。エンドーサン」
「ええ、大丈夫。ありがとう」
「ワタシ、パドマト、イイマス。ココデノ、アナタノガイドデス」
「よろしく。遠藤美奈子です。もし、英語の方が都合が良ければ、わたし、英語わかりますけど」
 「オー!」
 パドマは、そう言うなり、もう4人同じホテルに送迎する客がいるから、ここで待っていて欲しいと 英語で美奈子に告げた。
 彼女は小さな鞄だったので、そのまま機内に持って入った。しかしそうでない客は、あのぐるぐる 回るコンベアーから自分たちの荷物が出てくるのを待たなければならない。
 彼女は、皮のジャケットを脱ぎ、それを丸めてデイ・バッグのなかに押し込み、 次々出てくる旅行者を眺めていた。
 日本人と、白人。オーストラリアからの長期滞在者だろうか。大きなボードを抱えているもの。 大きなスーツケース2つを押しているもの。小奇麗な人。小汚い人。
 小奇麗だろうがそうでなかろうが、日本人は一つに区分されて、この地に、小銭をばらまくだけと言う印象しか残さない。
 そんな美奈子に向かって、日本人らしき男が近づいてきた。
「SISのツアーの方ですよね。俺、岡本って言います。よろしく」
 同じツアーと言っても、宿と旅券がパックになっただけの格安ツアーだ。 美奈子はこのように、自ら話しかけ、手を差し出す日本人を今まで見かけたことがなかった。
「初めまして。よろしく。遠藤です」
 美奈子はそう答え、この男に少し興味を抱いた。ジーンズにTシャツ姿のその男は、彼女より少し若く見えた。そしてこの土地にとてもふさわしい雰囲気を持っていた。
 きっと彼の体温は、わたしの体温より暖かいはずだ。
確信と言えるほどの感情を美奈子は感じていた。


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