
帰り支度をはじめている矢崎の耳に、それは突然入ってきた。何か濁った、そして少し不快な音だった。矢崎はその音のもとへ、美術室の方へと静かに歩み寄った。
そこには、左頬に手を当てた真理子と、もう一人の女生徒がいた。矢崎からは、真理子しか見えなかったが、真理子と対峙しているその生徒が誰なのか、すぐに分った。
橋本恵。この学校のちょっとしたアイドル的存在だ。
「あんたみたいな女、だいっきらい!岡は、岡はあたしの男なんだからね!」
すごい剣幕で恵は真理子に食って掛る。
真理子は恵を見据えながら静かに吐いた。
「誰が決めたの?橋本さんの思い込みでしょ?たとえ、あなたと岡が付きあっていたとして、そんなのあたしがここで岡を見ていることに、何の影響も及ぼさない。それに、人の心を所有なんてできないわ。そんなくだらない事を言う女と付き合ってるとしたら、岡にはがっかりだわ!」
その台詞を言い終えないうちに、恵の右手が、もう一度真理子に向けられた。
その手をよけて、真理子は、恵に思いっきり平手を食らわした。
「学習しないほど馬鹿じゃないわ、あたしは」
恵の顔が左右に大きく揺れた。恵の表情は見て取れないが、ショックとそして、その後沸いてくる怒りで、その顔色は真っ赤になっているに違いなかった。
「それに、あなたみたいに、胸ばっかり大きくて勉強も出来ない女、あたしも嫌いだから、お互い様ね」
びっくりするほどその声は響き渡った。恵は返す言葉もなかったのか、捨て台詞を残して走り去った。
「あんたなんか、死んでしまえばいい!」
左頬に手を当てたまま、真理子は静かにグランドを見つめた。そこに、岡の姿はない。それでもその瞳は岡を探し続ける。
「最後の一言は言わなくてよかったんじゃない?」
扉に寄りかかりながら矢崎は真理子を見つめた。黄金色の光に照らされた真理子の表情は見えなかった。しかし、そこに一粒の光の帯を矢崎は見た気がした。
「先生、いたの…。立ち聞きなんて悪趣味」
「いたのって、なあ。ここが俺の仕事場なの」
「ふーん」
「ふーんってなあ、おい。まあいっか。それより、こっち来い!」
そう言いながら矢崎は、冷凍庫から氷をとりだし、ハンカチに包んでそれを真理子に手渡した。
「それ、腫れるぞ!せっかく別嬪なんだから、気をつけないとな」
「こんな顔、どうなったっていい…」
やれやれ、またこんな時間に、こんなのに引っ掛かっちまった。そう思いながら、矢崎はエスプレッソを淹れる支度を始めた。ロッカーを開けて、珈琲の缶を取りだした。深入りの細かく挽かれた粉を固く詰め、それをコンロにかける。水が沸騰してくるにつれ、良い香りが準備室に広がる。デミタスにちょうどふたつ分、ぴったりの量の珈琲ができ上がった。
矢崎は、ひとつを真理子の前に置いた。真理子は、頬に氷を当てながら、デミタスに手を伸ばす。なんとも言えない間が二人を包み、それに耐えられなくなった矢崎は言葉を探しながら、鞄に放り込んだ煙草を取りだし、火をつけた。
「お前らしくないなあ。あんな酷いこと言うなんて」
その言葉に、デミタスを見つめていた真理子は、やっと矢崎にその視線を動かした。
「……酷い?どの辺が?」
「最後のあの台詞は、一言多かったんじゃないか?」
「最後の台詞…」
「そう、『胸ばっかり大きくて勉強も出来ない女』ってとこだ」
「だって……」
「だって?」
「事実でしょう?」
暖かい日差しに染まったその表情とは全く違う、氷のように冷たい真理子のその声は、矢崎の耳の奥にねっとりと張り付いた…。
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