
あの朝、へべれけに酔いながら見上げた空は黄金色で、わたしと彼はその美しい朝日を一緒に感じた。 オレンジという単純な色味ではなく、何といえば良いのか。 深みがいつもの色と違い、キャンバスに薄く幾層にも塗り重ねられた感じなのだ。それでいて透明で柔らかく、あれは毎朝母がきつね色のトーストに山盛り塗るマーマレードの色。そう、まさにマーマレード色の空がわたしたちの目の前に広がっていた。
望んだものすべてが手に入るようなそんな気持ちにさせる、それは幸せな色だった……。
ある種特殊な環境に育ってきた彼と仲よくなるには時間がかかった。
彼は人と少し距離を置いてつきあうようなタイプで、それは彼の生い立ちを聞くと頷けるものだった。
お互い苦学生で、深夜のバイトで同じ時間働くようになり、好きな音楽や小説、映画、バイクの話を 少しずつし始めるまでに一月。それから一緒に飲みに行くようになるまで三月かかった。
ひとつ年下だが、すごくしっかりした考えを持つ彼にわたしは尊敬の念と、 同志に対するような親愛の情を抱いていた。
「あなたに逢えてよかった」
「うんうん、わたしもそう思う」
「俺、あなたのこと大好きだよ」
「嬉しいこと言ってくれるなあ。わたしも大好きだよ」
お互い酔っ払いながらの絶叫し、酒臭い息を吐きながら、がしっと抱きって家路に着いたあの朝。その後もそんな付き合いがあり、わたしたちはずっと同志だった。はずだった…。
「今からちょっと出てこれないかな、話があるんだ」
そう電話がかかってきたのは深夜12時前だった。そんな時間の電話だったから、家族は びっくりして飛び起きた。何か急に不幸があったのではないか、そう思っても仕方ない。が、それは、わたし宛の電話だったのだ。
「どうしたの、何かあった?」
「いやね、ちょっと声が聞きたくなってさ、こんな時間なのにかけちゃいました」
夜10時半以降の電話に、うちの親がうるさいことは彼にも話してある。そんな中、鳴った電話。 何かあったに違いない。わたしはそう思った。
「今から行く。どこにいるの?」
「あなたの家の前」
わたしは受話器を置き、ジャージ姿のまま飛び出していた。
彼のオフロードが蒼い月に照らされていた。吐いた息の色が見えるこの季節に、 寒々とした色のそれを吐きながら慌てて彼が走ってきた。
「どうしたの?」
「ちょっと疲れたんだ」
「大丈夫? おじさんがはぐはぐしてあげようか?」
「何言ってんの」
彼は静かに笑った。
「ご免ね、ほんま、ご免…」
そう言うなり彼はわたしを抱きしめた。何がご免なのか、何があったのかわたしには分らない。 びっくりして動けないわたしの頬に冷たい彼の手が触れる。 あれ、ひょっとしてキスされる? とか思ってしまうシチュエーションだけど、まさかね。
彼はわたしの目をのぞき込んで静かに微笑み、「お休みなさい。遅くに電話してご免ね」と 、そう告げてわたしの前から消えていった。排気ガスだけが鈍くわたしの目に映っていた。
それから彼と連絡をとることは出来なかった。春が芽吹き、夏が咲き、秋が枯れ、冬が凍った。 そんな季節を3回過ごし、世間がちょうど、赤や緑や金色の飾りに溢れている12月の昼過ぎ、彼から電話があった。
「お久しぶりです。Mです。覚えてますか?」
3年ぶりの彼の声。大切な友人の声。忘れるはずなんてない。
「今から時間とれるかな?」
「大丈夫、元気?」
「うん、元気。今から30分後に迎えに行くから、大きいほうの通りで待ってて」
いつものオフロードではなく、スズキの黄色い小さなオープンカーで彼は現れた。
3年ぶりに見たMの顔は大人っぽく、そして以前より痩せて見えた。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
ギクシャクした雰囲気が漂う中、テープの貸し借りをした懐かしの曲がFMから流れ出す。
風を受け走りながら、何故Mが連絡を絶ったのかを聞こうかどうか迷っていた。
「覚えてるかなあ?」
まっすぐ前方を向いたままの彼がそうわたしに話しかけた。
「ん? 何?」
「俺の生まれ育った環境のことを、あなたに言った日のこと覚えてる?」
「……。覚えてるよ」
ああ、そんなこともあったなあ。ぼんやりと彼の顔を見た。サングラスに隠れたその瞳の表情は 読み取ることは出来ない。
「俺ね、あの日にあなたに惚れたんだ」
惚れたんだ。惚れたんだ。惚れたんだ。頭の中にその言葉がぐるぐる回りだす。
「俺の名字からそう気付く奴等もいたし、気がつかなかった奴も周りからあれこれ聞くと、なんかこの人は自分たちとは違うんだと言う目で見だすって言うのかなあ。そんなのには慣れっこなんだけどね。慣れてると言っても平気なわけじゃないからさ」
FMから、ジョン・レノンのクリスマスソングが流れる。
「そんな中で、あなたは『うん、だから何?』ってそう言ったんだ」
横を流れていく車の中には、楽しい会話をかわしているであろう恋人達の姿や、家族の姿が見える。わたしたちも、彼らのように幸せなカップルに見えたりするのだろうか。
「たぶん、気がついてると思うけど、俺ね…」
いつもと違う表情で彼がわたしにそう告げた…。
「ん? だから、何?」
「なんとも思わないの?」
「何をどう思うの?」
「……」
「君は君でしょう? 何も変わらないでしょ?」
「……」
「もしM君が日本語を話せないのなら困るけどね」
「……」
彼は優しく静かな表情でわたしの瞳をしっかり見据えながらこう言ったのだった。
ありがとう。あなたに出会えてよかったと…。
ラジオから、流れてくるイマジンに、蘇るあの頃の記憶。
才能と名声と莫大なる富を手に入れたジョンが何故、ヨーコという名の日本人と結婚したのか。国境もなく、戦争もない。そんな世界、想像なんかできない。ジョンのその歌は所詮絵空事にすぎない。いや、そんなことない。皆が願えば必ず叶うはずだよ。そんな話もしたね…。
「あの冬の晩…」
何かを決意したかのように彼は話し始める。
「あなたを連れて逃げようと思った。でも出来なかった」
ゆっくりと、静かに彼は続ける。
「色々な活動を続けて来て、ボーダレスになるための活動だったはずなのに、その境界線を自らに課してしまって、あなたといっしょにいることが出来なくなった」
「……」
「年老いた俺のあの頑固な親爺や家族のこと、取り巻く環境を思うと、差別や偏見を無くすために、それらを打破するために頑張ってきたはずなのに」
「……」
「自分の中にどっぷりと境界線があって、やっぱり同じ環境下で育ってきた人間にしか俺の苦労は分らないだろうとか、あなた個人は俺という人間を認めてくれても、あなたの家族がどう思うかとか」
彼はわたしを好きだったの?
「色々あって、あなたに逃げたくて、でもそれも出来なくて」
彼はわたしを欲していたの?
「泣きたかったのに、弱い自分を、格好の悪い自分を100パーセントあなたに見せることが出来なかった…」
彼はわたしを必要としていたの?
「あなたは、いつも強かったから…」
わたしが、わたしが強いと言うのか? 頼るべき人に頼れず、泣きたいときも 辛いときも傷を舐めてくれる人はいなくて、癒してくれる人はいなくて、だから自ら傷を舐め、自分を騙し騙し生きてきたわたしが強いのだろうか?
「大丈夫、わたしは大丈夫」
言い聞かせるように呪文を唱え、鎧を身にまとい、演じてしまった『強気』なキャラクター。
わたしも、彼の前で本来の自分を見せることはできなかった。
なぜならば、彼はいつも前を向いて走っていたから…。そう思っていたから…。
「女って強いよね!」
沈黙の後にMはそうわたしに言った。わたしはMが何を言っているのか分らなかった。
「当時、俺のことを好きだと言う女の子がいてね、3歳年下だから、当時は16歳で、 あの晩、あの冬の晩に、『彼女の身代わりでいいから抱いてくれ』って、俺にそう言ったのね。 俺はその子に女性としての興味はなかったんだけど」
「なかったんだけど?」
わたしは、Mに続きを促した。その続きは分っているのに。
「俺は彼女を抱いた。寒くて、寒かったから、ただ暖かくなりたくて、 一番自分がしたくなかったことをしてしまったんだ…」
愛情のないセックスはしない。本当に愛する人しか抱きたくない…。
彼はそう言っていたっけ。
「俺は、彼女を抱きながら、あなたを抱いていた。あなたの名を呼んだ…」
思わず横にいるMの顔を見つめた。
彼はこちらをちらりと見て、静かに笑った。わたしがあまりにもすっとんきょうな 顔をしていたせいだろう。
「彼女はね、それを許してくれたんだ。俺がただ寒くて、彼女を愛してもいないのに 抱いたことをね。16歳の子供なのに、女って子供を産む性だからかな…」
「……」
「彼女はまるで、母親のように大きく、そして優しく俺を抱きしめてくれたんだ」
当てもなく走り続けたわたしたちの前に、あの朝と同じような色した空が滲み始めた。 わたしたちは言葉を発することなくただその空を見つめていた。
「子供が出来た」
「えっ?」
「信じられないでしょ? あんだけ学歴にこだわってあの大学受けた俺が、大学止めて、その女の子と結婚したなんて…」
彼は経済的な事情から、私立に進学することは出来なかった。彼は、現役で私大に受かっていたが、 一浪して国立大に通い、そして学費もろもろすべて自分で稼いでいたはずだ。
「子供…」
「そう子供」
Mの顔に、守るべき者がいる強さと、そしてそれに少し疲れた男の弱さを見た気がした。
3年前には、朝までヘベレケになるほど飲んでしゃべったこの同志もいつの間にか 大人になり、男になり、そして父親になっていたのだ。
わたしだけがあの頃に取り残されているような、不安感を覚えた。
「大丈夫! あなたは大丈夫!」
いつも自分自身につぶやいていた言葉。その呪文が今、彼の口から発せられた。
わたしは静かに彼を見つめ、繰り返す。
「大丈夫! あなたも大丈夫!」と。
あの朝見た空は、わたしたちの前には広がらない。
瓶の底にへばりつき乾燥して濁ったオレンジ色が、わたしたちを包んでいた。 もう、二人であのマーマレードの空を見つけることは出来ない。
「ねえ、ジョンはヨーコが日本人じゃなかったら、日本以外のアジアの女でも 結婚していたと思う?」
彼が望んでいる答えを見つけることが出来ず、わたしはただ彼を見つめた。何も言えず、最後の握手を交わした。
「ありがとう。あの日から何故あなたがいなくなったのか、その答えを知りたかった」
「俺はあの頃あなたが俺のことを少しでも愛していたか、それが知りたかった」
「……」
「答えは見つかった。これで俺も父親になれる」
彼のその顔は、さっきまでのそれと違い、強い意志を秘めた大人の男の顔つきになっていた。 そしてわたしにこう告げた。
「ジョンの魂がヨーコを欲し、ヨーコがジョンの魂と共鳴した。そんな二人に 国籍や人種の壁なんて最初から関係ないものなんだ…」
夕闇は今まさに、わたしの影を、マーマレードの空を飲み込もうとしていた…。