良い部分だけで付きあうというのは、一見合理的で、でも人として間違っているのかもしれない。その人まるごと受け入れて、良いところも悪いところも全て知り、友人関係を築いていくのが正しいことかもしれない。
自分に都合の良い対応をしてくれる人だけが味方ではないし、個々の立場上、違う意見でぶつかるかもしれないのだ。
しかしやはり、その人物に対して不信感を抱いてしまったら、修復は効かない。それでも修復したいと思わせる魅力があれば話は別だが。そこまでの熱い思いはわたしには少ない。
意見の違いだけなら話し合いで解決できるかもしれない。その話し合いから自分の非を見つけたり、そしてそれは、新たな世界を発見する鍵となるかもしれない。
学生の頃には気づかなかった人間性、柔軟性。変化するはずの、社会人としての価値観。年齢にふさわしい考え方。感性。
そう、感性の違いはどうしようもない。大きすぎる価値観の違いに、わたしは、ばっさりその人を切り捨てる。
似ているようで非なる環境。家庭という小さい城の中で築き上げられ、そこに根づく感性。躾の中に見られる個々の考え。そして、侮れない血の中に染み込んだ生活習慣。
気づかない振りをしてきた違い。それがいくつもいくつもわたしの土壌に蒔かれた時、大きな不信の芽が顔を出す。その芽は萎えることを知らず、わたしの心に深い根を張り続ける。
自分の考えがおかしいのかと人に尋ねる。わたし側の友人であるから、わたし贔屓なのは仕方ない。でも、冷静に話を訊いてくれて意見を述べてくれる友人の言葉に耳を傾ける。
十人の人間に十の常識があり、必ずしも自分の常識が正しいわけではないと思う。でも正しくはなくても、あなたの常識が間違っているわけではない。みんな自分の物差しで世界を見つめている。あなたの物差しの方が世間に近いと思うが、その人にその物差し短いよ、と言っても分からないだろう。その長さがその人にとってのいっぱいいっぱいで、本人の努力がない以上、その長さは短くはなっても、新しく長い物差しを手にすることはないだろう。もう諦めて、そういう人だと思うしかないと。良いところに目を向けるしかないよと。
出来たその友人はまるでお釈迦様。悟りの境地である。この友人を失わないようにしなければ。
でも至らないわたしは、じたばたともがくのだ。
諦めてばっさり切り捨てることができたら良いのに、そうもいかず、人のかさぶたを絶妙なタイミングで剥がしにかかるその人の長所に目を向けることが出来ない。
わたしは、敵にするとこの上なく恐ろしい存在だが、いたって普通の感覚の持ち主だと思う。自分にされて嫌なことは出来る限りしないように努めているし、自分にしてもらって嬉しいことや居心地の良いことは、他の人にもしてあげたいと考える。もちろん、こちらの意図したところと別の部分で、他人に不快感を与えているかもしれないが、今回はちょっと別に置いておく。
例えば、自分が苦痛に感じる仕事。それが必ずしもその人にとって不快ではないかもしれない。しかし、好んではしたくない仕事だとしよう。そんな場合、わたしは基本的に自分がその仕事をする。誰がやっても同じならわたしがしたら良いと思って生きてきたからだ。
が、これが大失敗だった。そんな配慮することなく、なんでもしてもらうべきだったが、後の祭りだ。
「わたししかする人間いないから、何でも自分でやってきた。目配り気配りで仕事をこなしてきた。使える人間がいなかったから、どうすればやりやすいか、効率良く動けるか、常に考えてきた」
そう言っていた彼女の台詞を、過信してしまっていたのだ。
わたしの習慣的な行動と彼女の常識は違う。わたしの常識と彼女の目配り気配りは違うものなのに、同じものとして考えてしまったのだ。それは常識なんだよ?気配りじゃないよ。配慮がなさすぎるんではないの?そう思うことが多々だ。そこが敗因だ。感性が違いすぎるのだ。
食卓は汚れていないほうが気持ち良いから、綺麗に拭く。自分に気持ち良いことは他人もきっとそうだから、自分が使わない場合も、自分が汚した場合じゃなくても拭く。それが常識と思っていた。もちろん、両手にお皿を抱えているときは別である。
でもそうじゃない人もいるのだ。世の中には。それをしろと言われていないから、わたしの仕事じゃないと。見える部分はするけれど、見てる人がいないところでまで働くことはないよと。
その上、汚れてても平気なの、自分は。と言われれば、返す言葉もない。
本来というか、わたしが彼女の立場なら(常識があるなら)、言われなくてもするであろうことを、一切しようとしない。期待するから落胆するのだろうが、人として、それで良いのだろうか。こんな大雑把なわたしでさえ、それぐらいのことは気がつくというのに。
自宅にいれば、母親が何もかもしてくれるから、そんな当たり前のことに気づきもしないのだろうか。人がするのが当たり前なのだろうか。彼女の常識では。同じ年月生きてきたイイトシした人間がこうかと思うと哀しくなり、ぞっとする。
そんな生活習慣的な部分は、同じクラスで授業を受けても見えてこないものだし、放課後のだらだらとした、適当な付き合いからは露呈することはなかった。
良い部分を、沢山持ちあわせているであろうその人に対して、その部分を見るようにして付きあうべきなのかもしれない。が、わたしには無理だ。もう、どこをどう見ても不快でしかないのだ。
そうして、不快に感じる自分の心の膿に、益々溺れていくわたしは、今以上に自分を嫌悪してしまう。
自分に蒔かれた種が、腐り悪臭を放つ。刈り取る術をしらないわたしがここにいる。
相容れぬ彼女との常識、習慣的な行動。理解できない彼女の価値観と、どのように折り合いを付けていけば、心の膿が枯れていくだろうか。