Home--varios---底の見える川で

 一生懸命頑張っている人って、すごいなと。そして、酸素過多で苦しくないの?などと思ってみたりする。

 そんなにひた向きになれることがあるなんて、羨ましく思う。羨ましいと同時に、もう少し常識のラインを歩けよと、そんな有り難た迷惑な言葉を言いかけてそして言えずに呑込む。

 自身の中にある、確立した自分。人と比べてどうとかではなく、自分がどうあるべきか知っている人間は強く開放されている。
 開放され自由な彼らは、内に内にと力が向くので、雑多なことに、そう、外野が何していようと興味を示すことない。心は穏やかだ。もちろん、内なる自身との対峙は必要で、それにはとても体力を要する。

 かつて、下手くそな画を真剣に描いていたころ、わたしの心も自分にだけ向いていた。どうしてあの色が出せないんだろう?どうしてこう柔らかい線が引けないのだろうと。
 優れた友人と自分を比較しては落ち込んだり嫉ましく思ったりしたが、描き続けていくと、そんなことはもうどうでも良くなり、内なる自分に問いかける。

 お前はなんのために描くのか…。秀でたものは、優れたものは何一つないのに…。

 なんのためにあんなに一生懸命だったのだろう。そこから一円も得ることはできなかったのに。

 ただ描くことが好きで、自分と向きあって、いつももがいていた。巧く描けなくて苦しくて、ぼろぼろに批評されて悔しくて、自分の意に反したものが不思議と評価され息ができなくて。でも、必死に呼吸していた。足のつかない水の中で、岸に辿り着くべくもがいて、溺れて。
 本当にしたいことをして、もちろん、それに伴う苦痛はあったけれど、ちゃんと前向きに生きる方向でじたばたしてた。

 今のわたしは、底の見える汚れた川に浮かんでいる悪意の塊。もがくこともなく、流れに逆らうこともなく、今以上の澱みに身を委ねる。

 そうして、朽ちていくのを待っている。澱みに身を沈め息ができなくなることを。


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