13日夜、パスポートコントロールを受けるべく並んでいた最中に、それはモニタリングされた。
耳に響くのはベトナム語。目に映るのは、噴煙と赤々と燃える炎だった。アナウンサーが口にする言葉の中で聞き取れたのが「インドネシア」と「バリ」。そして「クタ・レギャン」であった。
本来というか、計画がうまくいけば、あの燃えさかる炎の中にわたしも間違いなくいたはずだった。
友人がバリのクタ・レギャンにアパートメントを借りる予定をしており、その友人とバカンスを楽しむはずであった。同行予定の妹も、一度訪れているあの通りでは迷子にならないだろうから。
激安ツアーで訪れるバリのほとんどの宿は、クタ・レギャンであり、わたしが過去訪れたコテージ全てがやはりそうであった。
今回、テロに見舞われたディスコ「サリ・クラブ」は、一年半前のバリ旅行のコテージの、通りを挟んで横に位置する。今回予定のツアーの宿名にも、そこはは一番目に出ていた。しかし、前回、あまりの「サリ・クラブ」の騒音に眠れなかったわたしは、もう少し静かな場所にコテージを取ってくれとオーダーするつもりではあったが、それでもきっと現場である「サリ・クラブ」から500mも離れはしなかったろう。
詳しい情報はもちろん帰国してからのものだった。そしてその情報が鮮明になればなるほどぞっとした。死者180人越。使用された爆弾の量。被害の範囲。空中撮影における現場写真。わたしたちが宿泊していたコテージは、見るも無残に焼けただれ、どす黒い煙をまき散らしていた。一年半前の旅行でこのようなテロが起こっていたら……。
ガス爆発か?と駆けつけた人々は、そこで泣き叫ぶ声と、横たわる遺体に目を奪われたに違いない。
インドネシアはイスラム教徒が多いが、バリ島はそうではない。バリヒンズーは特に優しい宗教なのに、聖なる神々が息づく島であるのに、観光で持っている島だというのに。
亡くなった方やケガをされた方、そしてその親族・友人だけではなく、この島全体に、そして近隣のアジア諸国に与えた爪痕は大きく深い。
海の向こうでは、あちらこちらで戦争が起こり、続いていている。その様子は、見ようとしなくても何らかの形で目にする毎日だ。気の毒にと呟いてみても、所詮は他人事で、わたしの肌から血は流れはしない。
人間とは我が侭な生き物で、自分に降りかからないと、そのことの重大さに気がつきはしない。
どれだけ空爆しようとも、そこで叫び声をあげる者の声は届きはしない。脳みそが吹き飛び、腕が脚が宙を舞い、赤ん坊に乳を与えていた母親の首が無くなろうとも、その母親の体が硬直し冷たくなっていこうとも、母親を失った赤ん坊が、飢えと渇きでゆっくり干からびていこうとも、こちら側には何の痛みもなく血も流れず、それは別の時限のことなのだ。
それだけのことをしておきながら、自分に火の粉がかかると人間は立腹し、報復と称した戦旗を掲げる。もちろん、昨年九月に起きたあの事件は、テロは、アメリカだけでなく、全世界において、悲劇としか言い様がなく、あれを起こした人間は許されるべき存在ではない。罪もない一般の善人な人々を巻き込んではいけない。
今回のテロもそうだ。観光産業だけでしか外貨を得ることのできない小さな島の、そこで楽しく過ごそうとした罪のない善良な一般人をあのような惨事に、悲劇に巻込んではいけないのだ。
かつて訪れたことのある大好きな国や街。そこで一緒に笑った友人達の存在。自分の近しい人たちがそれに触れて初めて、そういったものに接点を持ち心を痛め、涙を流す愚かで浅はかな人間。もちろん、その馬鹿野郎はわたしのことである。
イスラム過激派が行ったことは「罪」だ。だが、アメリカも、そこに同調する国も同罪であり、傍観者であるわたしたちは、もっとも大きな罪を背負っているはずだ。
鏡を合わせた、あちらとこちら。見る視点はもちろん違う。環境も、宗教も、経済もすべて異なってはいるが、どちら側も、世界を終焉に招く始点には間違いない。相容れない二つの魂が、より大きな導火線に着火する前に、これ以上の血を流させないために、わたしたちは何ができるだろうか。何から始めたらよいだろうか?
何も見ず、聞かず、日々垂れ流し、快楽だけを追い求めることができる本当に強い人間であれば、こんな偽善者にならずに済んだのに。
わたしは、あまりにも中途半端な偽善者だ。声を挙げ反戦を唱えることもなく、微々たる額の金額も募金できず、静かに世界の終わりを待っている傍観者。自分の終わりまで世界は続くと夢見ながら…。
自分が何か言ったって世界は変わらない。声も届かない。ずっとそう思っていたし、今もそういう気持ちでいっぱいだ。でも、だからといって、「傍観者」という大罪を背負って生きていくことは、もうできない。
何かを始めなくては。
反戦を唱える前に、募金の前に、まずその国を知らなくてはならない。今現在の自分の立場。そう、国や経済、宗教というものを少し横において。非・倫理的な野蛮とも言える理解不能な考えもあるが、まず知らなくてはならない。知る努力から始めなければならない。歩み寄る姿勢を取らなければならないのだ、きっと。
身近な日常でもそうだ。あの人、嫌い。この人は敵。そう感じてしまったからといって、もちろん、その人を殺すことはないが、心では抹殺してしまっていることが多々ある。よく考えると、相手が自分の考え通りに動かない、してくれないという我が侭な感情がその支配主だ。そう認めたくないが、きっとそうだと思う。
価値観、常識の違い。そんな人たちとは相容れない。だから殺すのか?心の中で静かに空爆を落とし続けるのだろうか?
それじゃあ、イスラム対アメリカの図式と一緒だ。
今現在、能天気な国日本に生まれたわたしは、戦前の考え方も理解できないし、資本主義以外の理念も想像できない。自分たちに属さないから、反発するから、戦い、殺し合うのだとすれば、大きな戦争も自分の心の中の悪しき膿と同じものだ。
だから、考えよう。自分自身を。知る努力をしよう、相手の立場に近づいて。そうして、それから次の階段を半歩でも上ってみよう。同じ人間なのだから。そう、偽善者と呼ばれても。そうであっても良いのだ。
まず、想像しよう。傍観者でもなく、同じ「人」として、その種が絶えないように…。
そこから生まれるものを信じてみよう……。いや、信じさせて欲しいのだ。平和と愛を………。