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 自由気ままに生きているつもりでも、何にも属していない人間はいない。「心は自由である」と、そう謳ってみたところで、いくつかの性質により区分されている。そして、必ずしもそれは悪いことではない。

 我々は様々なものに属しており、その属性ゆえに悩んだり、ためらったり、恩恵を受けたりする。
 何ものにも捕らわれずに、自分の中にあるまっすぐな思想の中のみで生きている。誰に属して、何に属しているというのか。
 はたして本当にそうだろうか?意識下レヴェルにそれがないだけではないのか?

 属性---そのものを他と区別する固有の性質。

 そうあるように、宗教や思想。生活手段である社会。家族。そして、国家。それらにしっかりと属している。
 宗教がない日本人にとって、(もちろんこれは、他国の根づいた宗教観との比較における意味合い)それに属しているかと問われれば、否と答える人が多数ではないかと思う。
 しかし、結婚式はともかく、葬儀の時、何らかの形で、わたしたちはそれに属することになるのだ。

 何かに属するということは、とても気持ちの良いことだ。
 一人で生きていくことが不可能なわたしたちは、何かに属することにより、安心感が得られ、そして守られる。

 社会、つまり、所属する学校や会社。これらがないと、人は不安になる。学校に行かなくても、と言う人もいるが、集団における生活というものはやはり重要で、学ぶ必要がある。社会と接点を持たない立場だと、やはり不安定であるし、社会に属しているに者たちに、違う属性を刻印されるのは必死だ。

 わたしでは、二十五歳まで、ぶらぶらと定職も持たずにいた。長期間での旅行のために。半年働いて、二月の旅行。ぶらぶらして、小銭貯めて、またふらり。そんな生活を、羨ましいと言う人もいたが、そこに無言でありながら見え隠れする社会生活不適応者というレッテルを、わたしの嗅覚はちゃんと嗅ぎ取っていた。なぜならば、わたし自身が、一番強く今後の生き方に不安を抱いていたのだから。

 社会生活不適応ということは、重々承知していたものの、だからといってこのままの生活を続けていくことはできない。しかし、何かに強く属するということに当時は不安をいだいていた。そして今は、そこからはじき出されることに不安を抱いている訳だから人間とは哀れな生き物だ。

 「属性」、こんなことをふと思ったのは、北朝鮮に拉致された方々が、バッチをはずしたことにある。

 何か(この場合は国家であるが)に無理やり属する形で生き永らえてきた人たちが、それを外し、自分たちの根がどこから派生しているかをきっぱりと主張した時、自由への希求と、そして、そこから外れることの恐怖、その両端を垣間見た気がした。

 国籍というものは選べないかもしれないが、他者から無理やり押し付けられたものでなく、少なくとも自ら選び取ったもので区別されたい。そして、錆びた重い鎖でなく、柔軟に外すことのできる美しい鍵のついた鎖を選び取りたいと思うのだ。誰かに属したいと願うとき、わたしはそうでありたい。


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