小学六年生を誰が子供と決めたのでしょうか?
どうして、殺人者であるこの加害者の未来を守るべく、検討されなくてはならないのでしょうか?
事故ではなく、明確な意志を持ったその行為が、何故、ただ生きてきた年数が少ないからといって、保護されなくてはいけないのですか?
人はどこを境目に、大人と呼ばれるのだろう?
わたしは、年齢を重ねさえすれば大人と呼ばれるものになるわけではないことを、子供と呼ばれるころから知っていた。
そして、十分すぎるほど年齢を重ね、誰がどう見ても、大人であると識別されるわたしは、未だ大人ではなく、出かけて行く所が広がっただけで、年齢で許可されたことが増えただけかもしれない。
その義務を伴った権利の中で、あの頃以上に、そう、子供と呼ばれていたころ以上にじたばたもがき、闇の中、わたしは、罪とともに、罪悪感という影とともに歩んでいる。
わたしは、とても我がままだったので、自分に対して都合の悪い人や嫌いな人に対して、よくこう思った。
いなくなっちゃえばいい――わたしの目の前から。
死んでしまえばいい――わたしに関係のないところで!
殺したい! そう思ったことさえ、わたしにはあるのだ。何度も。
その相手は、自分自身と、そして、もう一人。
でも実行しなかったのは、わたしが、そうしたあとに起こるであろう様々なことを想像したからだ。わたしは、そこで踏みとどまることができた。妹たちを、犯罪者の身内にしてはいけないと思ったからだ。
わたしが一人っ子であれば、わたしは、握ったあの刃を間違いなく彼に、そして、自身に突き立てていたはずだ。わたしは、あの時、ちょうど小学校六年生だった。
小学校六年生は決して子供ではない。
当時六年生のわたしは、少年法らしきことも知っていたし、正当防衛で、誰かを殺してしまったとしても、庇護されることをちゃんと知っていた。
この件の加害者と被害者が、どちらが正しくて、どちらの心がより傷ついたかなんてことは、誰にもわからないことだ。被害者が、万が一、生きていたとして、双方のこころを覗いて検討したとしても、そこに妥当な見解は見つからないだろう。
人は、自身に対する微細なことで酷く傷つき、他者にほうり投げた大きな石礫には鈍感すぎて、こころの形なんて見えなくて、気持ちの振り子も様々で、だからこそ、とても難しいことだけれども、人の気持ちになって考えなさいと、学んできたはずだ。
かっとなって、咄嗟に持っていた刃で切りつけたのではないこの少女の、殺してやる! という強い念。そして綿密に計画されたこの殺人が、どうして罰せられないのだろう?
この少女が、悔いていると報道されているが、そんなものわかったことじゃない。ぺろっとこころの中で舌を出してるかもしれない。反省の色を誰が見て取るというのだろうか?
普通の親子関係を築けず、異常と言える家庭環境に育ち、子供もいないわたしには、この被害者の父親の気持ちはわからないけれど、この亡くなった少女が妹だと考えるとそれは想像を絶する痛みとなり、わたしには彼の心中を理解できる。
彼の、我が子を亡くした無念さ、辛さ以外の部分では、常識的でないわたしの心情とは違うかも知れない。彼は、罪を憎んで人を憎まずという、大きな人かもしれないからだ。
でも、わたしなら、この加害者を決して許せないし、許さない。
眠れなかった夜が安眠へと変化するのが許せない。被害者である彼女は不眠も安眠もないのだから。
何か食して美味しいと口にするその態度が許せない。被害者である彼女はまずいという言葉も口に出来ないのだから。
時を経て時代を重ね、事件が風化し、この殺人者である彼女が恋をして、誰かを愛するのが許せない。被害者である彼女はもう誰も愛せないし、愛されることはないのだから。
人はどんな状況でも、小さな幸せを見つけることができる生き物だ。道端に咲く花を見て、優しくなれたり、幸せを感じることができたりする。しかし、そんなささやかな幸せを、その彼女が感じるのが、わたしは絶対許せない。
こういうと、君は罪を犯さないのか? 罪を犯した人は救われる術を持てないのか? 幸せになってはいけないのか? そう問われるかも知れない。
わたしはただ思うのだ。蒔いたものは、必ず自分で刈り取らねばならない、と。
そう、許してもいいこと、許せること、そして、絶対に許すことができないことが、この世界にはある。
事故で愛するものを亡くしても、納得できないのに、計画的で意図的な殺人であれば、なおさらだ。場所を考え、道具をそろえ、メンテナンスも終え、抗うこともできない人間に刃を放ったのだから。
事故で他者に、取り返しのつかないようなケガをさせたり、殺してしまったとしたら、もし、わたしが加害者となったら、きっとわたしは生きていけない。生きていくことは地獄だから。ずるいわたしは、きっと死んで楽になるだろう。
人の命を奪うということは、自身のそれも奪われてしかるべきだと思う。
自らの行いに対する代償は、同じもので支払うべきだ。そして、それに対する恐れが、抑止力になるば、とそう思う。そんなのは、本物ではない、そういわれても、わたしは、そう思う。